ゲティスバーグでの砲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 06:10 UTC 版)
「エドワード・ポーター・アレクサンダー」の記事における「ゲティスバーグでの砲撃」の解説
アレクサンダーの最も有名な参戦は1863年7月3日のゲティスバーグの戦いでだった。この時ロングストリート軍団の砲兵隊を指揮していた。その日アレクサンダーは実質的に全軍の砲兵隊を支配していた(リー軍の砲兵隊長の正式な役割はウィリアム・N・ペンドルトン准将に与えられていた)。北軍セメタリーリッジの陣地に対して150ないし170門の大砲を使って、南北戦争でも最大のものとされる2時間の集中砲撃を指揮した。ロングストリート将軍がジョージ・ピケット少将の有名な突撃を進発させるために、実質的に若い大佐であるアレクサンダーを起用し、北軍の大砲による防御が抑えられるかを判断するという大きな圧力のもとに置いた。アレクサンダーはゲティスバーグでの敗北に付いて1901年に「決して、決して、決してリー将軍に彼がしたような戦闘をさせてはならない」と書いてリーを非難することになった。 アレクサンダーは1863年秋に第1軍団に付いてジョージア州北部に向かい、チカマウガの戦いでブラクストン・ブラッグ将軍を支援した。アレクサンダー自身は到着が遅れて戦闘に参加できなかったが、その後のノックスビル方面作戦や1864年初期の東テネシー方面軍でロングストリート軍の砲兵長を務めた。アレクサンダーは戦争の残り期間その軍団と共にバージニア州に戻り、1864年2月26日付けで准将に昇進した。オーバーランド方面作戦の全戦闘に参加し、北軍ユリシーズ・グラント中将がリー軍を迂回してジェームズ川を渉りピーターズバーグを強襲した時、アレクサンダーはその前線を素早く砲兵隊を移動させ、その据えた大砲で北軍主力を撃退した。 ピーターズバーグ包囲戦の間、アレクサンダーはその砲兵戦術を塹壕戦に応用しなければならず、様々な種類の迫撃砲を実験的に用いた。北軍は南軍前線の下にトンネルを掘ろうとしていると確信するようになったが、これに対処できる前に狙撃兵の弾で肩を負傷した。治療のためにジョージアに戻る時に、リー将軍にその疑念とトンネル掘りが行われている場所を探したが見つからなかったことを報せた。その後に起こったクレーターの戦いは南軍を驚愕させたが、結果的に北軍の大敗に終わった。アレクサンダーは1865年2月に復隊し、ジェームズ川沿いにリッチモンドの防衛を監督した。アポマトックス方面作戦ではリー軍と共に撤退した。 アポマトックス・コートハウスにおいて、ロバート・E・リーに南軍は降伏するよりも丘陵部に散開しゲリラ戦を行うべきという有名な提案を行ったのがアレクサンダーだった。リーはこの提案を却下し、アレクサンダーは後にこの提案をしたことを後悔していると記した。
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