ゲティスバーグおよびオーバーランド方面作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 03:30 UTC 版)
「ジュバル・アーリー」の記事における「ゲティスバーグおよびオーバーランド方面作戦」の解説
ゲティスバーグ方面作戦のとき、アーリーはリチャード・イーウェル軍団の1個師団を率いた。アーリーの部隊は第二次ウィンチェスターの戦いで北軍防衛部隊を打ち破る中心となり、多くの捕虜を取り、リー軍がシェナンドー渓谷を進軍する道を開いた。アーリーの師団は騎兵隊を増強され、東にペンシルベニア州のサウスマウンテン山地を越えて進軍し、道中で貴重な物資や馬を捕獲した。6月26日にはゲティスバーグを占領し、賠償を要求したが、支払われることは無かった。2日後、ヨーク郡に入りヨーク市を占領した。これは南北戦争の間に南軍が落としたことでは北部最大の都市であった。ここで賠償要求が部分的に認められ、現金28,000ドルが支払われた。アーリー軍の一部部隊が6月28日にサスケハナ川まで到着し、組織化された南軍が通過した地点としてはペンシルベニア州で最東部となった。6月30日、アーリー軍は、リーが向かって来る北軍に対応するために軍隊を集中させることにしたので、呼び戻された。 1863年7月1日、アーリー師団は北東方向からゲティスバーグに接近し、南軍戦線の最左翼に付いた。ここで北軍フランシス・バーローの師団(第11軍団の一部)を完璧に潰し、自軍より3倍の損失を与えて、町の通りを抜けて撤退させ、その多くを捕虜にした。ゲティスバーグでの2日目、イーウェルが北軍の右翼を攻める一環としてイースト・セメタリーヒルに攻撃を掛けた。当初はうまくいっていたが、北軍の補強部隊が到着し、アーリーの2個旅団を撃退した。3日目、アーリーは1個旅団をエドワード・"アレゲニー"・ジョンソンの師団に付けて、カルプスヒルに総攻撃を掛けたが失敗した。7月4日から5日に掛けてリー軍がゲティスバーグから撤退する時に、アーリー師団の一部がその殿軍をカバーした。 アーリーは1863年から1864年に掛けての冬をシェナンドー渓谷で従軍した。この期間、偶々イーウェルが病気で不在となったために軍団指揮を務めた。1864年5月31日、リーはアーリーが高い指揮レベルの独創性と能力を備えているという確信を表明し、一時的な中将に昇進させた。 アーリーはシェナンドー渓谷から戻って、オーバーランド方面作戦の荒野の戦いに参加し、療養中のA・P・ヒルに代わって行軍中の第3軍団の指揮を執って、スポットシルバニア・コートハウスの戦いでユリシーズ・グラント中将の動きを阻止した。スポットシルバニアでは、ミュールシューの比較的穏やかな右翼を占めた。コールドハーバーの戦いでは、リーが実効を挙げないイーウェルに代えてアーリーを第2軍団の指揮官に据えた。
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