ゲティスバーグとピケットの突撃
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「ジョージ・ピケット」の記事における「ゲティスバーグとピケットの突撃」の解説
ピケットの師団は1863年7月2日、ゲティスバーグの戦いの2日目の夜に戦場に到着した。ペンシルベニア州チェンバーズバーグを通る南軍の通信線を守っていたために到着が遅れていた。ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍は激しい2日間の戦闘の後で、北軍ポトマック軍をゲティスバーグの南にある高台に追い込んだが、退却させるまではできていなかった。リー将軍の7月3日の作戦はセメタリーリッジにいる北軍中央への大規模攻撃を求めていた。ロングストリート将軍に3個師団を集めて攻撃を掛けるよう命じた。2個師団はA・P・ヒル軍団の疲れきった部隊(J・ジョンストン・ペティグルー准将とアイザック・R・トリンブル少将指揮)、残り1個師団がロングストリート軍団のまだ新鮮なピケットのものだった。リーはピケットに突撃を先導するよう任せた(ロングストリートが実際の上官ではあった)が、これがより正確な名称であるはずの「ピケット=ペティグルー=トリンブルの突撃」では世に知られていない理由の一つである。 北軍の防御を弱体化させる意図で砲撃が2時間にわたって行われた後、この3個師団はセメタリーリッジから約1マイル (1.6 km)続く開けた戦場を進み始めた。ピケットは「兵士達よ、持ち場に着け、今日お前達は古いバージニアから来ていることを忘れるな」と言って兵士達を鼓舞した。ピケットの師団はルイス・アーミステッド、リチャード・B・ガーネットおよびジェイムズ・L・ケンパー各准将の旅団で構成されており、攻撃隊の右翼だった。目標に近づいて行くと、過酷な砲撃をその側面に浴び、歩兵のライフル銃から一斉射撃もあった。アーミステッドの旅団は北軍の前線に最も接近した所まで進んだ。アーミステッドが致命傷を負い、「ジ・アングル」近くで倒れた。そこは今日、「南軍の最高水位線」と考えられている。しかし、他の2個師団はどちらも思ったほど戦場を進めず、アーミステッドの成功は補強されなかった。 ピケットの突撃は血の海だった。北軍は約1,500名が戦死または負傷したが、南軍の損失率は50%以上だった。ピケットの3人の旅団指揮官と13人の連隊指揮官のすべてが損失の中に入った。ケンパーは負傷し、アーミステッドとガーネットは生き残れなかった。トリンブルとペティグルーは最も上級の損失者であり、トリンブルは足を失い、ペティグルーは手を負傷し、バージニアに撤退する時に死んだ。ピケット自身は無傷で戦闘を生き残ったことで歴史的な批判を受けたが、その部隊の後方にいたピケットの陣取りは(恐らくエミッツバーグ道路沿いのコードリ農園)、当時の師団指揮官として指揮の原則を守っていた。 セミナリーリッジに沿って兵士達がもがきながら南軍の前線に戻ってくると、リーは北軍の反撃を怖れてその中央に兵士達を集合させるように務め、帰ってくる兵士達にはこの失敗が「全て私の落度だ」と告げた。ピケットはその日の残りを失望感に取り付かれ、突撃を命じたリーを決して許さなかった。リーがピケットに防御のためにその師団を集合させるよう命じたとき、ピケットは「リー将軍、私には今師団は無い」と答えたと伝えられている。この戦闘に関するピケットの公式報告書は見つかっていない。噂だが、リー将軍がその厳しい否定的表現の故に受け取りを拒否し、書き直しを要求したが、書き直された版が保管されなかった。 ピケットはその死の床で、失われた多くの部下達のことを悼んだ。戦後、一度だけリー将軍にあったが、「氷のような」会見だったと言われている。ジョン・シングルトン・モスビーはリーとピケットの間の冷たさという話を支持する唯一の証人である。他にそこに居た者および記録されている者はそのような交換を否定している。モスビーは、後でピケットが苦々しく「あの男が私の師団を破壊した」と言ったと述べた。多くの歴史家はこの遭遇がありそうにないこととし、特にピケットが他の場所で言ったと記録されているものでは、何故ピケットの突撃が失敗したかと聞かれた時に、「私は常にヤンキー達のせいだったと考えてきた」と言っていることを挙げている。
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