ゲティスバーグおよび論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 15:11 UTC 版)
「リチャード・ユーエル」の記事における「ゲティスバーグおよび論争」の解説
ゲティスバーグ方面作戦が始まった日の第二次ウィンチェスターの戦いで、ユーエルは北軍の4,000名を捕虜にし、23門の大砲を捕獲するという華々しい功績を挙げた。この時使用済みの弾丸が胸に当たるということがあり、あわや重傷というところを免れた(これはユーエルの軍歴では2回目のことであり、前回はゲインズミルの戦いでだった)。ユーエルの軍団はペンシルベニア州侵攻で先頭を進み、州都のハリスバーグまで到着するばかりまで迫ったが、リーが戦力をゲティスバーグに集結させるために呼び戻された。これらの成功はジャクソンにも比定されるものだった。 しかし、ゲティスバーグの戦いで、ユーエルの軍人としての評判はそれから長く続く下降を始めた。1863年7月1日、ユーエルの軍団は北からゲティスバーグに接近し、北軍第11軍団と第1軍団の一部を撃破し、北軍は町を通って撤退し、町の南にあるセメタリーヒルで防御的な陣を布く事を余儀なくされた。リーは戦場に到着したばかりであり、その陣地の重要性を認めた。リーは「もし可能ならば」セメタリーヒルを獲れという自由裁量のある命令をユーエルに送った。歴史家のジェイムズ・M・マクファーソンは「ジャクソンが生きておれば、疑いも無くそれが実行可能と分かっただろう。しかしユーエルはジャクソンとは違った」と記した。ユーエルは攻撃をしないことを選んだ。 ユーエルは攻撃しないことに幾つかの理由をつけた可能性がある。リーからの命令には本質的な矛盾があった。「実行可能だと判断すれば敵に占領されているあの丘を奪え。しかし、我が軍の他の師団が到着するまでは会戦を避けろ」とされていた。リーはまた、ユーエルが求めたヒルの軍団からの支援を拒んでいた。ユーエルの兵士達は長い行軍と7月の午後の激しい戦闘で疲れており、戦闘隊形を組みなおすことが難しく、ゲティスバーグの通りを抜ける狭い通路を使った丘への攻撃も難しくしていた。エドワード・"アレゲニー"・ジョンソン少将のまだ疲れを知らない師団が到着したばかりだったが、北軍の大きな増援部隊が東からヨークパイクに到着し自軍の側面に対する脅威になっているという情報を受けてもいた。ユーエルのいつもなら攻撃的な部下であるジュバル・アーリー少将もユーエルの決断に同意した。 リーの命令はユーエルに多くの自由裁量を与えたということで批判されてきた。マクファーソンのような歴史家達は、より攻撃的なストーンウォール・ジャクソンが生きてこのリー軍の一翼を指揮しておれば、この命令に対してどのように行動したかを考え、南軍がカルプスヒルあるいはセメタリーヒルを占領しておれば、2日目の戦いはどのように違ったものになったかを推測した。自由裁量のある命令というのは、リーの主要な部下であるジャクソンやジェイムズ・ロングストリートであれば、通常それに良く応え、その独創性を生かしてそのときの条件に反応し、望ましい結果を出したので、リーにとっては習慣的なものだった。このユーエル隊が行動できなかったことは、それが正当化されるにしろされないにしろ、この戦闘における南軍にほとんど確実にその代償をもたらすことになった。ユーエルの軍団が7月2日と3日に北軍の陣地を攻撃したとき、北軍は幾つかの丘を十分に占領し強固な防御を施す時間が有り、南軍の大きな損失に繋がった。戦後、「南部の失われた大義」を提唱する者達は、特に戦闘中にユーエルの部下になっていたジュバル・アーリーだけでなく、アイザック・R・トリンブル少将も、戦闘に破れた責任をリーから逸らせるために、ユーエルを激しく非難した。彼等の論旨の一部は、北軍がその日早くの敗北によって完全に士気をうしなっていたということだったが、ユーエルの兵士も編成がうまく整っておらず、かれらが提案したような決断は、熱い戦闘の最中と戦場の霧の中でよりも、後知恵としてははるかに容易に作られる性質のものである。 7月3日、ユーエルは再度負傷したが、この時はその木製の足だけだった。ユーエルはその軍団を率いてバージニア州への秩序ある撤退を行った。彼の運は弱まり続け、11月にはバージニアのケリーズフォードで負傷した。1864年1月にも、馬が雪上で倒れて負傷した。
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