ゲティ・ジュニアとの結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 11:19 UTC 版)
「タリサ・ゲティ」の記事における「ゲティ・ジュニアとの結婚」の解説
1966年12月10日、ポルはジョン・ポール・ゲティ・ジュニアの2人目の妻となった。婚礼衣装としてミンクで縁どられた白いミニスカートを着用した。夫妻はスウィンギング・ロンドン(英語版)のファッショナブル・シーンの一員となり、とりわけ、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーや彼のガールフレンドのマリアンヌ・フェイスフルと友人となった。フェイスフルは、ゲティ夫妻とモロッコで5週間を過ごす招待状について「生まれついての広場恐怖症」の不安を詳しく述べた。そしてジャガーと別れた後、彼女はタリサ・ゲティの恋人である若いフランスの貴族ジャン・ド・ブレトゥイユ伯爵(1949–1971年)に乗り換えた。ブレトゥイユはドアーズのジム・モリソン、キース・リチャーズ、マリアンヌ・フェイスフルなどのミュージシャンに薬物を供給した。フェイスフルはブレトゥイユが「スター相手のディーラーを自認していた」と書き、1971年のタリサ自身の死の2週間前にモリソンを死に追いやった薬物を与えたと主張している。リチャーズはジョン・ポールとタリサ・ゲティが「最良にして極上のアヘンを所持していた」と思い起こした。 高級婦人服デザイナーのイヴ・サン=ローランはゲティ夫妻をF・スコット・フィッツジェラルドの1922年の小説のタイトル『美しく呪われし者(英語版)』に例え、ファッションデザイナーのオジー・クラーク(英語版)と結婚したテキスタイルデザイナーのセリア・バートウェル(英語版)は、タリサ・ゲティを1960年代後半にジャンルの壁を超えた数多くの「美しい人々」の1人に数えた。1960年代の他の魅力的な人々の内、チェルシーでHung on Youブティックを設立したファッションデザイナーのマイケル・レイニー(英語版)と、彼の妻でありケネディ時代にアメリカに駐在したイギリス大使のデイヴィッド・オームズビー=ゴア(英語版)の娘ジェーン・オームズビー=ゴアは、ゴゾ島からウェールズ国境地帯(英語版)への移動の間、マラケシュのゲティ夫妻と「戯れた」。 ジョン・ポール・ゲティは、「スポーツカーを乗り回し、大酒を飲み、麻薬を試し、尻軽な新人女優に手を出す、性的に自由奔放なプレイボーイ」と評された。この間、家業であるゲティ・オイルからも遠ざかり、父親を大いに残念がらせた。しかし後年、彼は慈善家になり1986年、アメリカ市民としてイギリスの名誉騎士爵を受勲した。1927年に建造され、1994年に改装された彼の豪華ヨットは「MY タリサ・G」号という。 1968年7月、ゲティ夫妻に息子タラ・ガブリエル・グラモフォン・ギャラクシーが生まれた。彼はアフリカで環境保護主義者として名を馳せ、サードネームとフォースネームを捨て、1999年にタラ・ガブリエル・ゲティとしてアイルランドの市民権を取得した。彼と妻のジェシカ(彼がヴェルビエで出会ったシャレー(英語版)のメイド)には、タリサという娘を含む3人の子供がいる。 1969年までゲティ夫妻がイタリアとモロッコで過した孤立したライフスタイルはタリサを蝕み始め、ヘロインとアルコール依存症の治療のためイギリスに戻りたいと考えた。彼女とポールは互いに不誠実であり(ポールは1994年に結婚することになるヴィクトリア・ホールズワースと不倫をしていた)、ポールと冷静に話し合う事は困難だった。彼は別居に同意し、妻と息子が住む家をロンドンのチェイン・ウォーク(英語版)に購入した。1970年の初め、タリサはロンドンで真面目で活動的な社会生活を送っていた。
※この「ゲティ・ジュニアとの結婚」の解説は、「タリサ・ゲティ」の解説の一部です。
「ゲティ・ジュニアとの結婚」を含む「タリサ・ゲティ」の記事については、「タリサ・ゲティ」の概要を参照ください。
- ゲティ・ジュニアとの結婚のページへのリンク