ビックスバーグ【Vicksburg】
ビックスバーグ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:58 UTC 版)
「第13軍団 (北軍)」の記事における「ビックスバーグ」の解説
ビックスバークへの侵攻作戦は、グラントが指揮をとった。マクラーナンドは軍団長に戻り、テネシー軍はミシシッピ軍に再吸収された。これにより軍団名称もミシシッピ軍第1軍団から、第13軍団に戻った。ビックスバーグ方面作戦(1863年3月-7月)が開始された時点で、第13軍団は第9師団、第11師団、第12師団、第13師団および第14師団の5個師団編成であり、各師団長は、オスターハウス、スミス、アルヴィン・ホーヴェイ(Alvin Peterson Hovey)、レオナード・ロス(Leonard Fulton Ross)、ユージン・カー(Eugene Asa Carr)であった。ロスの第13師団は作戦中もアーカンソーに留まり、戦闘には参加しなかった。7月になって、この師団(師団長はフレデリック・サロモン(Frederick C. Salomon)に代わっていた)は、ベンジャミン・M・プレンティス指揮下の東アーカンソー小軍管区(District of Eastern Arkansas)の部隊(第1師団)として、ヘレナの戦いに参戦した。 5月1日のポート・ギブソンの戦い(Battle of Port Gibson)では、第17軍団からの若干の支援は受けたものの、第13軍団が中心となって戦った。マクラーナンドは5月16日のチャンピオンヒルの戦いに軍団の全兵力を投入しなかったが、ホーヴェイの師団が南軍右翼への攻撃を先導した。チャンピオンヒルでの勝利の翌日、ビッグ・ブラックリバー・ブリッジの戦い(Battle of Big Black River Bridge )もまた、第13軍団が単独で戦った。カーの師団が攻撃の矛先となった。 グラントが包囲戦を開始した時、第13軍団は北軍の左翼を担当した。ビックスバークへの攻撃における、第13軍団の損害は1500人近かった。 グラントはマクラーナンドは軍団長としては不適格と考えており、両者の関係は長期にわたってギスギスしていた。6月19日、マクラーレンは自身が書き残したメモのために、軍団長を解任された。後任にはグラントの友人で1862年に受けた傷から回復したばかりのエドワード・オードが就任した。オードは包囲戦の残りの期間、軍団を指揮した。ビックスバーグの陥落後、シャーマンはそこに集結している南軍を駆逐するため、ジャクソンへの遠征を開始した。シャーマンは第13軍団と、第16軍団のジェイコブ・ラーマンの師団も引き連れていった。カーは病気を得て一時的に軍を離れ、ウィリアム・ベントンが代わって師団長となった。
※この「ビックスバーグ」の解説は、「第13軍団 (北軍)」の解説の一部です。
「ビックスバーグ」を含む「第13軍団 (北軍)」の記事については、「第13軍団 (北軍)」の概要を参照ください。
ビックスバーグ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 08:06 UTC 版)
「ジョン・C・ペンバートン」の記事における「ビックスバーグ」の解説
1862年10月10日、ペンバートンは中将に昇進し、要塞都市ビックスバーグとミシシッピ川の防衛のためにミシシッピ方面軍と西ルイジアナ方面軍を任された。デイヴィスは彼の新しい任務に付いて、「貴方の任務の最初で主要な目的としてこれらの州をうまく防衛することを検討する」ように指示を出した。ペンバートンは10月14日にミシシッピ州ジャクソンの新しい作戦本部に到着した。その軍隊はアール・ヴァン・ドーンとスターリング・プライス各少将の指揮する5万名足らずとビックスバーグとポートハドソンにいる守備隊約24,000名だった。対するは北軍の攻撃的な指揮官で、かっては米墨戦争での僚友だったユリシーズ・グラント少将の10万名以上の部隊がビックスバーグ方面作戦にあった。 ペンバートンとそのミシシッピ軍は、はデイヴィスとジョセフ・ジョンストン将軍双方からの命令を実行する試みの中で、ジャクソン周辺に結集するジョンストン軍と合流するために出発し、一方残りの部隊はビックスバーグ周辺で守りに就いた。ジョンストンから提案されていた会合の場所を変更する命令が届き、ペンバートン軍が回れ右をしたところに、偶々グラント軍と来合わせて5月16日のチャンピオンヒルの戦いとなり、大きな敗北を喫した。ペンバートン軍はビッグブラック川まで撤退し、そこで5月17日に戦って同じように大きな損失を受けた。ペンバートンはビックスバーグを守ることに決め、5月18日にはその防衛戦まで後退した。ジョンストンからはビックスバーグ市を犠牲にして軍隊を救うよう忠告を受けたが、ペンバートンは6週間以上も要塞を死守し、その間に兵士や市民が飢えることになり降伏に繋がった。(ペンバートンは自分が北部で生まれたことによる南軍での評判を知っており、もしビックスバーグを放棄した場合に裏切り者として大衆に非難される怖れがあったので、恐らくはその判断に影響した)。 1863年7月2日、ペンバートンは4人の師団指揮官達に文書で、45日間の包囲の後で、彼等の部隊が「市の明け渡しを成し遂げるために必要な行軍と骨折りに耐えられる」と思うかを問うた。4人が一様に否定の回答だったので、翌日ペンバートンは北軍に対して降伏条件を協議するための休戦を求め、7月4日午前10時に市と軍隊共々グラントに降伏した。降伏条件(最初の話し合いでは無条件降伏だった)が交渉され、南軍兵士は釈放され、以下次のようになった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}我々の戦列から行軍して出て行くこと、士官は拳銃と衣類の携帯を許され、野戦、参謀、騎兵の士官はそれぞれ1頭の馬を許される。兵卒はその衣類の携行を許されるが他の所持品は許されない ペンバートン軍は2,166名の士官、27,230名の兵士、172門の大砲、約60,000挺のマスケット銃とライフル銃をグラントに渡した。このことと、7月9日に成功裏に終わったポートハドソンの包囲戦と合わせて、北軍はミシシッピ川の支配を完成し、戦争の残り期間エドマンド・カービー・スミス中将指揮下の軍隊とミシシッピ圏戦線がアメリカ連合国本体と切り離されるという大きな戦略的損失に繋がった。 ペンバートンはその降伏後、1863年10月13日に捕虜交換で釈放され、リッチモンドに帰還した。そこではほぼ8ヶ月間、何の任務もなく過ごした。当初、ブラクストン・ブラッグ将軍がペンバートンを使えると思ったが、その部下の士官達と協議した後で、デイヴィスに信用を無くした中将を使うことは「勧められない」と忠告した。ペンバートンはデイヴィスに宛てた文書で、「私を使えると貴方が思う如何なる任務にも」戻して貰うことを求めた。デイヴィスは個人的な信頼感は揺るぎないものとし、次のように答えた。 私は貴方がミシシッピ川の一部を守る目的で軍隊と共にまさに生死を賭けたと思ったし今でも思っている。貴方が成功しておれば誰も責めなかっただろう。貴方が努力していなければ、ほとんど誰も貴方のやり方を弁護しないだろう。 ペンバートンは1864年5月9日に将官職を辞任し、デイヴィスは3日後に砲兵隊の中佐としての任務を与え、ペンバートンはこれを南部とアメリカ連合国に対する忠誠の証の場として受け入れた。ペンバートンは1865年1月9日までリッチモンド防衛軍の砲兵隊を指揮した。1月7日付けで砲兵隊の監察長官に任命され、この職を4月12日にノースカロライナ州サリスベリーで捕虜になるまで続けた。ペンバートンの他に残っていた大砲14門、南軍兵約1,300名および10,000挺近い小火器があった。捕虜となった後に釈放の記録は無い.。
※この「ビックスバーグ」の解説は、「ジョン・C・ペンバートン」の解説の一部です。
「ビックスバーグ」を含む「ジョン・C・ペンバートン」の記事については、「ジョン・C・ペンバートン」の概要を参照ください。
「ビックスバーグ」の例文・使い方・用例・文例
- ビックスバーグのページへのリンク