師団編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 03:16 UTC 版)
「第14SS武装擲弾兵師団」の記事における「師団編成」の解説
師団には、バンデーラ派OUN-Bの極端な国家社会主義イデオロギーに反感を持ち、その軍事組織であるウクライナ蜂起軍(UPA)と歩調を合わせたくないと考えながらも、ウクライナの為になら戦うという義勇兵も含まれていた。また、師団の世話役であり、最高級将校を勤めたドムィトロー・パリーイウはポーランド第二共和国における小政党の党首であり、彼の同僚の多くが穏健左派政党、ウクライナ国民民主連合(ポーランド語:Ukraińskie Zjednoczenie Narodowo-Demokratyczne、UNDO)の党員であった。彼等は戦前、ポーランドとの対話を行い、OUNなどの国家社会主義に反対していた。さらに、師団にはアンドリーイ・メーリヌィク率いる国家社会主義穏健派も加わったが、これはOUN-Bが牛耳るUPAとの釣り合いを取るためと見做されていた。また、師団はムィハーイロ・オメリヤノーヴィチ=パウレーンコ(ウクライナ語版、英語版)将軍のような追放されてポーランドに避難していたウクライナ人民共和国亡命政府の要員からも精神的支援を受けていた。そして、ウクライナ東方カトリック教会、ウクライナ正教会も師団の支持をしており、キエフ正教会府主教ムスティスラウの息子もそのメンバーであった。 当初OUN-Bは師団が自らのコントロール外にあるということで編成に反対しており、師団がドイツ軍の盾になるだけであると主張した。しかしドイツ側がOUN-Bの干渉を許さず、師団の編成作業が進捗してくると今度はOUN-Bの影響力を確保すべく、軍事訓練を行った多くの構成員を送り込んできた。そのうち幾人かは師団幹部となった。 しかしこの加入によってOUN-Bが師団内で主導権を握ることはなかった。
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