徴兵と師団編成のための改正 (1885)
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「軍管」の記事における「徴兵と師団編成のための改正 (1885)」の解説
1885年(明治18年)6月の鎮台条例改正で、6つの軍管は一律に2師管を持つことになった。軍管は、反乱鎮圧、所在部隊の管理、対外防衛計画といった従来からの意義のほかに、壮丁の徴募の区分と位置づけられた(第1条)。徴兵令発布後の制度に対応したものである。1777年(明治10年)の西南戦争まで、軍管は鎮台が偵察し警戒すべき地域で、いわば敵として向かい合う対象であったが、士族反乱が後を絶ってそうした必要は薄れた。かわって徴兵制による兵力供給源としての意義が大きくなった。 区割りにおいては、6鎮台に対応する6軍管と空白の第7軍管という点で同じだが、東京と大阪に3つの師管を置いたのを改め、一律に1軍管2師管になった。これにともなう境界変更があり、また、対応する部隊の構成も一律にそろえられた。条例に付属する「七軍管兵備表」が示す兵備は、各軍管に騎兵・砲兵の各1個連隊と工兵・輜重兵の各1個大隊、各師管に歩兵1個旅団(2個連隊)である。軍管には2つの師管が属すから、どの軍管にも、歩兵2個旅団(4個連隊)、騎兵・砲兵各1個連隊、工兵・輜重兵各1個大隊が配置されることになる。対外戦争では、これら部隊が集まって師団を編成し、師団は軍団長の指揮下に入ることが予定された。この場合、師団が出身地域の防衛を顧みることはできないので、留守をあずかる鎮台司令官が別に任命される(第5条)。この制度下での戦争はなかったので、鎮台からの師団編成も、軍団長の任命も、実現はしなかった。が、基本原則は師団制に引き継がれ、日清戦争から日中戦争までの日本の対外戦争を支えることになった。
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