日中戦争まで
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幼年時代は廈門の鼓浪嶼養元小学で学ぶ。1924年(民国13年)11月に黄埔軍官学校第1期を卒業した。その後、国民革命軍に加入して陳炯明討伐(第1次・第2次東征)や北伐に従軍している。1928年(民国17年)冬には上海労働大学で、1932年(民国21年)には陸軍歩兵学校第1期で、それぞれ学んだ。 陸軍歩兵学校での学習を終えると、李良栄は第88師補充団団長に任ぜられた。その後、第4次・第5次の中国共産党(紅軍)掃討作戦や福建人民政府討伐にも参加し、戦後に第106旅旅長に昇進している。1936年(民国25年)、航空委員会航空特務団(中国語版)(空軍地上部隊)団長に任命され、同年末には陸軍大学特別班第3期で学習している。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)に、李良栄は第27軍第46師師長として蘭封会戦に参戦した。ところが李の指揮は芳しくないと判定されたために師長から罷免され、軍事委員会委員長侍従室参謀に移されてしまう。1939年(民国28年)には軍政部第13補訓処処長に任命された。1941年(民国30年)、李は第1縦隊司令兼第88師師長に任ぜられる。同年9月、中国軍が福州を奪回すると李が警備司令に任命された。1945年(民国34年)には第28軍軍長に昇進した。
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日中戦争まで
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佐賀県の福地家に生まれ、幼くして旧佐賀藩士である牟田口衛常の養子となった。佐賀中学を1903年(明治36年)に中退して熊本陸軍幼年学校・陸軍中央幼年学校へ進み、歩兵第13連隊での隊付士官候補生勤務を経て、1908年(明治41年)に陸軍士官学校(22期)に入校し、1910年(明治43年)卒。隊付見習士官として第13連隊に勤務したのちに少尉任官。1914年から1917年にかけて陸軍大学校(29期)在学。難関の陸軍大学校へ中尉になってすぐに合格入校しており、荒川憲一は「下級将校時代はいわゆる優等生であったことは間違いない」と評しているが、陸大を卒業してからは18年間はもっぱら参謀本部・陸軍省勤務であったため、典型的軍人官僚とも述べている。大田嘉弘によれば、若いころに陸軍省勤務であった経験が人事を軽く見る後の行動につながったという。少佐時代にカムチャツカ半島に潜入し、縦断調査に成功している。 1937年(昭和12年)7月7日夜半に発生した盧溝橋事件では、現地にいた支那駐屯歩兵第1連隊の連隊長であった。牟田口は、同連隊第3大隊長だった一木清直から、同大隊第8中隊が中国軍の銃撃を受けたとして反撃許可を求められ、「支那軍カ二回迄モ射撃スルハ純然タル敵対行為ナリ 断乎戦闘ヲ開始シテ可ナリ」(支那駐屯歩兵第一連隊戦闘詳報)として戦闘を許可した。このことから、牟田口は、自身が日中戦争(支那事変)の端緒を作り出したと考えるようになった。もっとも、盧溝橋事件を中国共産党の謀略により中国第29軍が起こしたとする見解を前提にすれば、牟田口の自意識過剰とも評される。
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