日中戦争に従軍とは? わかりやすく解説

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日中戦争に従軍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 10:13 UTC 版)

牛島満」の記事における「日中戦争に従軍」の解説

1928年3月歩兵第23連隊附となり、同年8月中佐進級1930年には下関要塞参謀1932年には陸軍戸山学校教育部長となり、大佐進級する陸軍戸山学校でも第一鹿児島中学校勤務時と同様に学生一緒になって剣術体育汗を流した45歳過ぎていた牛島であったが、鉄棒走り幅跳び牛島敵う生徒はおらず腕相撲学校で一番強かった当時北一輝の『日本改造法案大綱』に影響され若手将校政治を語ることが多くなっていたが、牛島は、教官生徒らに軍務集中するよう強く指導し、北らの政治主張には絶対反対の立場をとった。 1933年牛島幼年学校在学中区隊長を務めていた山岡重厚陸軍省軍務局長推薦により、牛島陸軍省高級副官就任荒木貞夫林銑十郎川島義之三代陸軍大臣仕えた牛島陸軍大臣仕えていた時は、陸軍内での派閥争いがもっと激烈な時期であったが、牛島仕えた3陸相はいずれもその派閥頂点に立つ人ばかりで、武人絵に描いたよう牛島だからこそ、この時期陸軍大臣副官務めあげることができたとも言われた。荒木によれば大きくことを処理しいわゆる小役人的な事務とらないが、諸事細心の注意がゆきとどいている」仕事ぶりで、荒木在任中に病臥した際も、牛島荒木病中病後の処理をしっかりと取り仕切ったので安心して静養できたと回想している。また歴代の高級副官中でもっとも靖国神社祭典力を入れていたとの神社側の証言もあり、幕末動乱期から第一次上海事変まで靖国神社合祀されている戦没者一覧表靖国神社忠魂史』を編纂できたのは牛島の力に寄るところが大きかった1936年2月26日起こった二・二六事件の際には、牛島中国大陸出張中だったため事件には遭遇しなかったが、反乱間もなく鎮圧され、翌3月牛島事件首謀者一人栗原安秀中尉らの所属部隊である歩兵第1連隊長に任ぜられた。すっかり混乱した部隊をまとめられるのは牛島適任と見なされて抜擢であった5月8日からは第1連隊二・二六事件前から内定していた北部満州派遣され治安維持任務に就くこととなった軍の関係者兵士らは、牛島前任小藤恵連隊長引責更迭されており、懲罰派遣考えていたが、牛島荒んだ兵士らの激励慰問兼ねて8か所の分屯地大隊長らとトラック巡回し兵士らに「手足見せてみろ、不潔にしていると凍傷になるぞ」と声をかけて回り顔色が悪い兵士見かけると「風邪をひいているのではないか?無理をするな」と軍医診せるなど兵士きめ細かい心遣い見せている。兵士らは懲罰思い込んでいたのと、匪賊との戦闘死傷者出たこともあり意気消沈していたが、牛島連隊長心配りに絆されて兵士士気上がり牛島対す景仰信頼高まったその後新兵多数配属されたが、牛島影響受けていた古参兵らは、新兵心配りをするようになり、小銃の手入れ手伝い文盲新兵代わりに家族手紙書いてやり、官給品ランプ破損した新兵には古参兵が破損したことにして新品支給している。このように牛島連隊運営方針末端兵士まで行き届いており、連隊雰囲気改善されていった。これは、同じく反乱部隊中枢となった歩兵第3連隊が、新連隊長方針で「二・二六事件汚名をそそげ」と反乱参加した古参中心に徹底的にしごかれたのとは対照的であった

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