日中戦争に従軍
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1928年3月、歩兵第23連隊附となり、同年8月中佐に進級。1930年には下関要塞参謀、1932年には陸軍戸山学校教育部長となり、大佐に進級する。陸軍戸山学校でも第一鹿児島中学校勤務時と同様に、学生と一緒になって剣術や体育で汗を流した。45歳を過ぎていた牛島であったが、鉄棒や走り幅跳びで牛島に敵う生徒はおらず、腕相撲も学校で一番強かった。当時は北一輝の『日本改造法案大綱』に影響された若手将校が政治を語ることが多くなっていたが、牛島は、教官生徒らに軍務に集中するよう強く指導し、北らの政治主張には絶対反対の立場をとった。 1933年、牛島が幼年学校に在学中、区隊長を務めていた山岡重厚陸軍省軍務局長の推薦により、牛島は陸軍省高級副官に就任。荒木貞夫、林銑十郎、川島義之と三代の陸軍大臣に仕えた。牛島が陸軍大臣に仕えていた時は、陸軍内での派閥争いがもっとも激烈な時期であったが、牛島が仕えた3陸相はいずれもその派閥の頂点に立つ人ばかりで、武人を絵に描いたような牛島だからこそ、この時期の陸軍大臣副官を務めあげることができたとも言われた。荒木によれば「大きくことを処理し、いわゆる小役人的な事務をとらないが、諸事に細心の注意がゆきとどいている」仕事ぶりで、荒木が在任中に病臥した際も、牛島が荒木の病中病後の処理をしっかりと取り仕切ったので安心して静養できたと回想している。また歴代の高級副官の中でもっとも靖国神社の祭典に力を入れていたとの神社側の証言もあり、幕末動乱期から第一次上海事変まで靖国神社に合祀されている戦没者の一覧表『靖国神社忠魂史』を編纂できたのは牛島の力に寄るところが大きかった。 1936年2月26日に起こった二・二六事件の際には、牛島は中国大陸に出張中だったため事件には遭遇しなかったが、反乱は間もなく鎮圧され、翌3月、牛島は事件の首謀者の一人、栗原安秀中尉らの所属部隊である歩兵第1連隊長に任ぜられた。すっかり混乱した部隊をまとめられるのは牛島が適任と見なされての抜擢であった。5月8日からは第1連隊は二・二六事件前から内定していた北部満州に派遣され、治安維持任務に就くこととなった。軍の関係者や兵士らは、牛島の前任の小藤恵連隊長が引責で更迭されており、懲罰の派遣と考えていたが、牛島は荒んだ兵士らの激励と慰問を兼ねて8か所の分屯地を大隊長らとトラックで巡回し、兵士らに「手足を見せてみろ、不潔にしていると凍傷になるぞ」と声をかけて回り、顔色が悪い兵士を見かけると「風邪をひいているのではないか?無理をするな」と軍医に診せるなど兵士にきめ細かい心遣いを見せている。兵士らは懲罰と思い込んでいたのと、匪賊との戦闘で死傷者が出たこともあり意気消沈していたが、牛島連隊長の心配りに絆されて兵士の士気は上がり、牛島に対する景仰と信頼も高まった。その後、新兵多数も配属されたが、牛島に影響を受けていた古参兵らは、新兵に心配りをするようになり、小銃の手入れを手伝い、文盲の新兵の代わりに家族に手紙を書いてやり、官給品のランプを破損した新兵には古参兵が破損したことにして新品を支給している。このように牛島の連隊の運営方針が末端の兵士まで行き届いており、連隊の雰囲気は改善されていった。これは、同じく反乱部隊の中枢となった歩兵第3連隊が、新連隊長の方針で「二・二六事件の汚名をそそげ」と反乱に参加した古参兵中心に徹底的にしごかれたのとは対照的であった。
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