日中戦争までの活動
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1915年(民国4年)、上海民生中学を卒業し、上海聖ヨハネ大学に進学した。在学中に校報『約翰声』総編輯を務めている。1919年(民国7年)に同大学を卒業後、助教となり、さらに中学部で教鞭を執った。まもなく、『大陸晩報』の英文記者となっている。 1927年(民国16年)、兪鴻鈞は外交部長陳友仁の英文秘書として起用される。しかし、まもなく辞職して上海に戻り、上海市政府で英文秘書となった。このとき、宣伝科科長も兼ね、『市政周刊』の主編を務めている。後に上海市政府の財政局局長代理、秘書長代理を歴任し、1932年(民国21年)4月、正式に秘書長に任ぜられた。1936年(民国25年)、上海市長代理となり、翌1937年(民国26年)7月、正式に市長に昇進している。 まもなく第二次上海事変が勃発し、兪鴻鈞は上海市長として当事者となり、日本との交渉も行った。上海から撤退した後は、中央信託局常務理事、駐香港弁理外交事務となる。1941年(民国30年)6月、財政部政務次長に任ぜられ、8月には外匯管理委員会常務委員も兼任した。1944年(民国33年)11月、財政部部長に昇進し、さらに中央銀行経済研究処処長も兼任している。翌1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央執行委員に選出され、7月には中央銀行総裁も兼任した。
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