日中戦争・国共内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/04 04:14 UTC 版)
日中戦争(抗日戦争)勃発直前の1937年(民国26年)春、第41師副師長に任命され、勃発後は南京保衛戦にて栖霞山の防衛に当たる。保衛戦さなかの11月に師長に昇進した。南京陥落後、丁は第41師を率いて徐州会戦、武漢会戦、随棗会戦(日本側呼称は襄東会戦)等に参戦。1939年(民国28年)11月、陸軍中将に昇進し、第2次・第3次の長沙会戦に参戦した。 1942年(民国31年)1月、丁治磐は第9戦区において第27集団軍第26軍軍長に昇進し、浙贛会戦や長衡会戦を戦う。1944年(民国33年)8月、桂柳会戦に参戦したが、敗戦・損害を喫して一時免職処分を受けた。しかし翌1945年(民国34年)、第27集団軍副総司令兼第26軍軍長として復帰し、湘西会戦を戦う。まもなく丁は中国遠征軍第4方面軍副司令官に任ぜられ、アメリカ軍との共同行動で功績があったためにシルバーオークリーフ自由勲章を授与された。 戦後、丁治磐は第2綏靖区副司令官と青島警備司令兼行政長官を兼任した。1947年(民国36年)12月、第11綏靖区司令官に昇進し、引き続き青島の守備を担当している。1948年(民国37年)9月、江蘇省政府主席兼江蘇綏靖総司令、江蘇省党部主任委員などに転じた。1949年(民国38年)、第1綏靖区司令長官に任ぜられ、中国人民解放軍の長江渡河を防ごうとしたが、敗退に終わった。その後も暫編第1軍を編成するなどして懸命に各地で抵抗を続けたが、1950年(民国39年)6月、舟山群島経由で台湾に逃れている。以後、総統府国策顧問を務めた。 1988年(民国77年)3月8日、台北市にて死去。享年95(満94歳)。
※この「日中戦争・国共内戦」の解説は、「丁治磐」の解説の一部です。
「日中戦争・国共内戦」を含む「丁治磐」の記事については、「丁治磐」の概要を参照ください。
日中戦争・国共内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 14:51 UTC 版)
1937年(民国26年)8月13日、上海の防衛線で右翼軍総司令兼第18集団軍総司令をつとめていた張発奎は、日本軍との交戦を開始した(第二次上海事変)。張発奎は、左翼軍総司令をつとめていた張治中とともに激しく抗戦している。しかし11月9日、ついに日本軍に防衛線を破られ、敗退した。 1938年(民国27年)夏、張発奎は、第9戦区第2兵団総司令兼第8集団軍総司令に任命され、武漢会戦に参加した。その後も、広東、広西方面の各地で転戦している。1945年(民国34年)3月には、第2方面軍司令官に昇進した。日中戦争最終盤には、広西の奪回に努め、戦争終結後、広州で日本軍の降伏受諾を担当した。 国共内戦時期において張発奎は、余漢謀、薛岳らとともに広東派と呼ばれる集団を形成した。これにより、広東を反共・反蒋介石の根拠地にしようと画策している。1949年(民国38年)1月に蒋が下野し、副総統の李宗仁が代理総統となると、張は陸軍総司令に任命された。そして、李と手を結んで蒋を拘禁しようと謀ったが、失敗に終わる。7月、蒋介石の復権に伴い、張は下野し、香港へ逃亡した。 1980年3月10日、香港で病没。享年85(満83歳)。
※この「日中戦争・国共内戦」の解説は、「張発奎」の解説の一部です。
「日中戦争・国共内戦」を含む「張発奎」の記事については、「張発奎」の概要を参照ください。
日中戦争・国共内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:01 UTC 版)
日中戦争中は重慶で国民党との協調に努めた。戦後も双十協定を結び、国民党の張群や米国のジョージ・マーシャルとともに軍事調処執行部(中国語版)(三人委員会)も設立するなど調整を続けたがまとまらず、国共内戦が始まった。共産党が勝ち、1949年に中華人民共和国を建国した。 その後日本軍の捕虜に対して、「服役期間中に態度が良好だった戦犯に関しては、早期釈放をしても良い。年配者や体が弱い者或いは病人も釈放を考慮し、家族の訪中や見舞いなどを許可する」「民族間の恨み、階級間の憎しみ、それを忘れてはいけない。しかし、それでも私たちは彼らを「改造」し良くしなくてはいけない。彼らを生まれ変わらせ、我々の友にしよう。日本戦犯を『鬼』から『人』に変えられるかどうか、これこそ中国文化の知恵と力量に対する試練なのである」と述べている。管理所職員やその家族などの多くが日本軍の被害を受けていたため戦犯を厚遇する事に反発がでたが周恩来は『復讐や制裁では憎しみの連鎖は切れない。20年後に解る」と諭した。「最初の日本人戦犯裁判で起訴155人死刑7人執行猶予付き死刑3人が確定したが周恩来の指示で最終的に起訴51人死刑なし無期懲役なし懲役20年4人に減刑された。あまりの寛大な処置に収容所スタッフから不満が出たが「今は分からないかも知れないが20年後、30年後に分かる。」周恩来は言ったという(ちなみに連合軍側が裁いたBC級戦犯の裁判では死刑判決が920人、終身刑判決が383人だった)。 また、日本人戦犯だけでなく、対日協力者だった戦犯にも寛容であり、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀や蒙古聯合自治政府主席のデムチュクドンロブなどが周恩来から特赦と役職を与えられている。
※この「日中戦争・国共内戦」の解説は、「周恩来」の解説の一部です。
「日中戦争・国共内戦」を含む「周恩来」の記事については、「周恩来」の概要を参照ください。
- 日中戦争・国共内戦のページへのリンク