日中戦争・太平洋戦争の影響
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「トラピスト修道院」の記事における「日中戦争・太平洋戦争の影響」の解説
1937年(昭和12年)7月7日に日中戦争が勃発すると、修道院敷地もすべて函館要塞地域に組み込まれ、写真撮影が禁止され、絵ハガキ、バター缶も軍の検閲が要求される。同時に警察の圧力も強まる。日中戦争と太平洋戦争に若年修道士14名が次々と徴兵され、4名が戦死した。同年秋から翌年秋にかけて、西側建物(食堂、ノビシア、病室)が建設された(煉瓦造り2階建)。 1939年(昭和14年)ブリックベック大修院長 D.モール・ダニエル辞任。 1940年(昭和15年)2月2日 D.マリー・ジョセフ・マルキー、ブリックベック大修院長に選出。 1942年(昭和17年)8月中旬 D.ベネディクト大院長、中国のトラピスト修道院視察の帰途、特高の妨害に会う。帰院後、家宅捜索を受け、警察に拘留。当別での居住が困難となり、福岡県の新田原分院に居を移す。 1944年(昭和19年)5月29日 D.ベネディクト大修院長、アレキシオ野田如安神父を臨時修院長に指命。 7月 福岡県新田原分院を閉鎖。 1945年(昭和20年)4月 千島列島から引き揚げた残存舟艇部隊が当別に宿泊。その一部は修道院の客舎、聖堂、本館を接収し、炭焼き、牛飼いなどをして生活を始める。 6月29日 戦火に会い、学業が続けられなくなった東京大神学校より野田時助校長(後の新潟知牧)を始め神学生一行7名が疎開。その後も次々と来院して、計16名となる。以後1年余り滞在して、修道士に準じた生活を送る。3名を除いて司祭に叙階され、そのうちで白柳誠一神学生は後に東京大司教・枢機卿となる。 7月14日 函館大空襲。連絡船12、鉄道車輛120、民家400、死者4,800の被害を受ける。 8月15日 アレキシオ修道院長、修道士、神学生は野田校長室に集まり、ラジオで終戦の詔勅を聞く。
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