日中戦争・太平洋戦争の影響とは? わかりやすく解説

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日中戦争・太平洋戦争の影響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 09:04 UTC 版)

トラピスト修道院」の記事における「日中戦争・太平洋戦争の影響」の解説

1937年昭和12年7月7日日中戦争勃発すると、修道院敷地もすべて函館要塞地域組み込まれ写真撮影禁止され絵ハガキバター缶も軍の検閲要求される同時に警察圧力も強まる。日中戦争太平洋戦争若年修道士14名が次々と徴兵され、4名が戦死した同年秋から翌年秋にかけて、西側建物食堂、ノビシア、病室)が建設された(煉瓦造り2階建)。 1939年昭和14年)ブリックベック大修院長 D.モール・ダニエル辞任1940年昭和15年2月2日 D.マリー・ジョセフ・マルキー、ブリックベック大修院長選出1942年昭和17年8月中旬 D.ベネディクト院長中国トラピスト修道院視察帰途特高妨害に会う。帰院後、家宅捜索を受け、警察拘留当別での居住が困難となり、福岡県新田原分院に居を移す。 1944年昭和19年5月29日 D.ベネディクト大修院長、アレキシオ野田如安神父臨時院長指命7月 福岡県新田原分院閉鎖1945年昭和20年4月 千島列島から引き揚げ残存舟艇部隊当別宿泊。その一部修道院客舎聖堂本館接収し炭焼き牛飼いなどをして生活を始める。 6月29日 戦火会い学業続けられなくなった東京大神学校より野田時助校長(後の新潟知牧)を始め神学生一行7名が疎開その後次々と来院して、計16名となる。以後1年余り滞在して修道士準じた生活を送る。3名を除いて司祭叙階され、そのうち白柳誠一神学生は後に東京大司教・枢機卿となる。 7月14日 函館大空襲連絡船12鉄道車輛120民家400死者4,800被害を受ける8月15日 アレキシオ修道院長修道士神学生野田校長室集まりラジオ終戦詔勅聞く

※この「日中戦争・太平洋戦争の影響」の解説は、「トラピスト修道院」の解説の一部です。
「日中戦争・太平洋戦争の影響」を含む「トラピスト修道院」の記事については、「トラピスト修道院」の概要を参照ください。

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