日中戦争・太平洋戦争での活躍
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「孫立人」の記事における「日中戦争・太平洋戦争での活躍」の解説
1937年(民国26年)、日中戦争が勃発すると、孫立人率いる税警総団は第8軍の番号を与えられて上海の最前線に赴くことになる。孫立人は支隊司令として蘇州に駐留して、第1軍軍長胡宗南の指揮下で日本軍を迎撃する。孫立人率いる第8軍は戦闘力を発揮して日本軍に打撃を与えたが、孫立人自身も最前線で指揮中に全身13か所を負傷、緊急搬送されて香港で治療せざるを得なくなった。翌1938年(民国27年)7月、孫立人は部隊に復帰し、武漢会戦で勇戦、軍功をあげている。 同年中に財政部が塩務総局緝私総隊を組織すると、孫立人が総隊長に任命された。孫立人は湖南省で部隊の組織を開始し、後に貴州省へ移って貴州第3綏靖区司令に任命されている。孫立人は軍事訓練に各種体育活動を取り入れる独特な方法を採用し、わずか1年で緝私総隊を最精鋭部隊にまで練成した。ところが軍統指導者の戴笠がこの部隊を接収しようと企むようになる。1940年(民国29年)に塩務総局が緝私署を設置し、署長に戴笠腹心の施展技、副署長に孫立人が就任した機会を狙い、戴笠は孫立人と折衝してその部隊の指揮権を奪い取ってしまった。 その後、かつて孫立人が統率していた税警総団は新編第38師に拡充・再編され、孫立人は同師師長として復帰する。1942年(民国31年)4月、孫立人率いる新編第38師はその精鋭ぶりを蔣介石らから評価され、中国遠征軍(中国語版)の一員としてミャンマー入りした。同月、孫立人はイェナンジョンの戦い(英語版)で日本軍と激戦を展開し、包囲に落ちて苦しんでいたイギリス軍7000人の救援に成功するという軍功をあげた。これは孫立人の名声を大きく轟かせることになり、英米両国から勲章を授与されることになった。5月にもイギリス軍のミャンマーからの撤退を支援し、8月にインドのビハール州に移駐している。 10月、新編第38師と新編第22師が合流して新編第1軍(中国語版)が組織され、軍長は鄭洞国が就任、孫立人は引き続きその下で新編第38師師長を務め、軍の訓練に従事した。1943年(民国32年)10月より、新編第1軍はミャンマー北部の日本軍に反攻を開始する。孫立人は友軍と協力しながら着実に各地を攻略し、6月25日にはモガウン(Mogaung)を攻略、勝利を収めた。この軍功により孫立人は新編第1軍軍長に昇進している。10月より進軍を再開、日本軍と激戦を繰り広げ、12月15日にバーモ(Bahmo)を攻略した。翌1944年(民国33年)1月27日にはレド公路を回復、3月末までにミャンマー北部の日本軍をほぼ掃討している。
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