日中戦争以降
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しかし1931年(民国20年)の満州事変(九・一八事変)勃発に伴い、各派大同団結の機運が高まったため、王懋功も反蒋活動を停止する。同年12月、王は中国国民党第4期中央執行委員候補に選出された。1933年(民国22年)6月、山西省政府委員に任ぜられ、さらに正太鉄路管理局局長を務めている。1935年(民国24年)11月、国民党第5期中央執行委員候補に再選され、翌年、平綏鉄路局局長に転じた。1937年(民国26年)9月、軍事委員会軍法執行副監に任ぜられる。1945年(民国34年)1月、韓徳勤の後任として江蘇省政府主席に任ぜられ、また蘇北挺進軍総指揮として日本軍に対処した。同年5月、国民党第6期中央執行委員に選出された。 1946年(民国35年)1月、王懋功は江蘇省保安司令・軍管区司令も兼ね国共内戦に備える。また、同省の国民党党部主任委員と三民主義青年団幹事長も兼任している。1948年(民国37年)9月、江蘇省での各職から免ぜられ、11月、戦略顧問委員会戦略顧問に転じた。国共内戦で国民党が敗退すると、王も台湾へ逃れている。1952年(民国41年)10月に退役し、以後、総統府国策顧問や光復大陸設計研究委員会(中国語版)委員などを務めた。1961年(民国50年)12月27日、台北市にて病没。享年71。
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日中戦争以降
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日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、旧第15師は第73軍に拡充されて王東原が軍長に昇進し、第二次上海事変(淞滬抗戦)に参戦した。1938年(民国27年)春、武漢珞珈山訓練団研究班副主任に転じる。同年6月には、三民主義青年団中央臨時幹事会幹事に任ぜられ、さらに第34軍団軍団長も兼ねた。翌月には三民主義青年団訓練処長となり、さらに冬には第34集団軍副総司令となっている。年末に重慶へ召還され、中央訓練団副教育長(教育長代理)に任命され、まもなく教育長へ正式に昇進した。1939年(民国28年)初めには第32集団軍副総司令となり、翌年、国民政府軍事委員会政治部副部長となっている。1942年(民国31年)5月、陸軍大学政治部主任を兼任し、後に国防研究院主任にもなっている。 1944年(民国33年)7月、王東原は湖北省政府主席となり、翌月、第6戦区副司令長官を兼任した。翌年6月、国民党第6期中央執行委員に選出されている。戦後の1946年(民国35年)4月、王は湖南省政府主席に転じ、三民主義青年団湖南省指導員も兼ねている。1948年(民国37年)8月、戦略顧問委員会委員に任ぜられた。国共内戦末期に王は台湾へ逃れている。
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日中戦争以降
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日中戦争(抗日戦争)最中の1941年(民国30年)7月、魯北行署主任となり、翌年1月には山東省政府秘書長に任ぜられた。同年4月、同省政府民政庁庁長に移り、さらに1944年(民国33年)12月、同省政府主席兼保安司令に昇進している。1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央監察委員に当選した。戦後の1946年(民国35年)10月、北平市市長に起用されている。1948年(民国37年)、徐州剿匪総司令部政務委員会常務委員も兼ねたが、同年6月に各職から罷免された。 その後、何思源は華北7省市の参議会から中国共産党との和平交渉首席代表に推薦され、北平無血開城に貢献している。中華人民共和国建国後は、中国人民政治協商会議全国委員会委員(第1期から第5期)や中国国民党革命委員会(民革)中央委員会委員などを務めた。1982年4月28日、北京市にて病没。享年87。
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