戦時中の動向
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1943年(昭和18年)、堺東車庫で発生した火災により、モハ1081形およびクハ1801形各3両が全焼したが、翌1944年から1945年にかけて、モハ1201形と類似の18m級半鋼製車体を新造して原番号で復旧した。なお復旧に際しては、戦時中にもかかわらず、2段上昇窓の戦前形車体で復旧されている。 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)には、戦災によりモハ1019~1020およびモハ1082~1084・1089、およびクハ1802・1804が全焼し、廃車されている。また火災復旧されたばかりの半鋼製車も、モハ1082とクハ1802が戦災に遭って全焼し、廃車されている。
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戦時中の動向
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日中戦争以降は、図書館も戦争の影響を受けることになった。いわゆる文科系の学問が軽視される風潮が強まったため、文科系に属する分野の蔵書が中心であった附属図書館の受入図書数は減少していった。また、職員の徴兵も相次いだ。さらには、戦時中の資材欠乏のために学内で建物の新築が困難となったことから、新たに設置されることとなった東洋文化研究所に附属図書館の東翼一部が提供されることとなり、附属図書館として利用できるスペースも減少することとなった。屋上には陸軍によって高射砲の設置が検討されたこともあったが、これは大学の要請によって阻止されている。陸軍では敗戦間近の1945年になると、大学キャンパス全体を(上野公園一帯の森と合わせて)皇居を守る防衛線として使用するために接収するといった案すらも出されていたが、当時総長となっていた内田祥三が交渉にあたり、未遂に終わっている。 大学の接収が計画されたように、戦局は著しく悪化し、東京は幾度も空襲の被害を受けていた。このため、学内の各図書館、図書室では図書の疎開が進められていた。附属図書館では、疎開に先駆けて1944年4月21日には『和漢書疎開図書略目録』、『洋書疎開図書略目録』が作成された。疎開先となったのは山梨県西八代郡市川大門町(現在の同県同郡市川三郷町市川大門地区)の渡辺家の土蔵である。同家は蔵書家として知られた渡辺信の旧家であり、渡辺信の蔵書は附属図書館が震災後に青洲文庫として購入していたという縁があった。すなわち附属図書館が蔵書を購入したことで空いていた倉を、附属図書館が疎開のために利用することになったということである。疎開は2回に分けて行われ、第1次は1944年7月末から10月初めごろにかけて木箱に詰めた図書308箱分を移動し、第2次は1945年6月中に50箱を移動している。いずれも市川大門駅まで日本通運の貨車で移送された。この際疎開されたのは貴重書22,917冊であり、内訳は和漢書20,542冊、洋書2,375冊であった。一方で多くの図書は本郷に残されたが、上層部の図書を地下に下ろす、重複図書を積み重ねて防壁の代わりとするなどの工夫が凝らされた。さらに、建物の安全性を見込まれて諸官庁から資料が持ち込まれることもあった。また建物にも縄網によって迷彩が施されるなどの工夫もされた。 これらの対策が取られていたが、本郷キャンパスは敗戦まで空襲の被害をほとんど受けなかった。1945年3月10日の東京大空襲でキャンパス南端にある懐徳館洋館・和館が焼失した程度である。これは、GHQが本郷キャンパスを占領後の拠点として使用するために爆撃の標的から外したためであるという説がある。また、附属図書館は史料編纂所書庫とともに、米国で作成されたいわゆるウォーナー・リストと呼ばれる文化財リストに掲載され、無印から3つまでの範囲で重要度を表す「*」の印が2つ付されていて、(このことが即ち爆撃の回避対象となったことを表すわけではないが)重要性はある程度認知されていたと見ることもできる。さらにこのリストが掲載された米国陸軍の便覧では、附属図書館が中国で接収された図書を所蔵していることに言及し、この資料群が中国に返還されることを想定して注意を払うよう促す記述もあった。
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戦時中の動向
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昭和18年10月(第12巻第8号) - 昭和19年9月(第13巻第7号)は、「工芸指導」(後期)と名称を改めた。昭和19年10月より休刊し、昭和21年6月(第14巻第1号)から復刊。
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