戦時中の労働大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 02:02 UTC 版)
「アーネスト・ベヴィン」の記事における「戦時中の労働大臣」の解説
1940年にウィンストン・チャーチルは第二次世界大戦の苦難期間に国家を運営するために挙国一致内閣を結成した。チャーチルは、平和主義な労働組合へのベヴィンの反発と彼の仕事欲求に感銘を受け(チャーチルによると、ベヴィンは「私の時代に労働党が輩出した最も傑出した人物である」)、ベヴィンを労働兼徴兵大臣の地位に任命した。当時のベヴィンは実際には国会議員ではなかったので、結果生じた憲法上の逸脱を取り除くために、彼のための議員の地位が急いで見つけられ、ベヴィンはロンドン選挙区のワンズワース中央の庶民院議員として庶民院の反対もなく選出された。 国家緊急権(国防)法はベヴィンに労働力と人材配分の完全な管理を与え、彼はこの前代未聞の権威を、戦争に勝つ手助けのためだけでなく、戦後未来における労働組合の交渉上の地位を強化するために使うことに決めた。ベヴィンはこんな冗談を残した。「グラッドストンは1860年から1930年まで大蔵省にいたと言います。私は1940年から1990年まで労働省に行くつもりです」、これはグラッドストンの経済政策が大蔵省の方針を統制したのと同じくらい長く、彼が労働省で自分の教義を残そうと切望していたことを示唆するものである。結局彼の(遺した)管理法は約40年間行われ、ジェームズ・キャラハン政権下における不満の冬の後に、イギリスの労働組合がベヴィンの教義を極端に受け取って、ゼネラル・ストライキを通じて政府の政策を変えようとした。1980年代初頭のマーガレット・サッチャー政権の改革まで、彼が導入した産業的解決策は戦後政権の移り変わりがあっても大部分が変わらずに残った。 戦時中、ベヴィンは軍隊徴集兵約48000人を石炭産業で働かせる(これらの労働者はベビン・ボーイズ(英語版)として知られるようになった)ことに責任を負っていた一方、労働者階級の人々の賃金と労働条件の大幅改善を確保するために自身の立場を利用していた 。彼はまた、最終的に何百万人もの軍事要員と民間の戦争労働者を平時経済に戻す復員計画を策定した。ベヴィンは、労働党が連立政権を離脱した1945年まで労働大臣だった。ヨーロッパ戦勝記念日に、彼はホワイトホールの群衆を見下ろしているチャーチルの隣に立っていた。
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