戦時中の収容所警備部隊SS髑髏大隊
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「親衛隊髑髏部隊」の記事における「戦時中の収容所警備部隊SS髑髏大隊」の解説
一方髑髏部隊がいなくなった後の強制収容所はどうなったかといえば、一般親衛隊の予備隊、訓練不足の者、突撃隊隊員、国防軍の高齢者、外国人ナチ協力者などで以って創設された「親衛隊髑髏大隊」(SS-Totenkopf-Sturmbann)によって警備されることとなった。先の親衛隊髑髏部隊とは基本的に別物だが、「寛容は弱さの印」といった冷酷なスローガンだけはしっかり受け継いだ。 前述したように戦前は収容所のブロック指導者と作業班指導者は髑髏部隊から充てられていたのだが、戦中にはこれらの役職は収容所職員から出され、髑髏大隊は各収容所に警備を担当する監視隊を出すだけになった。監視塔の上から収容所を監視したり、作業班に付いて行って監視歩哨をしたりするのが彼らの主な任務だった。1940年には強制収容所総監府(強制収容所職員)と髑髏大隊はそろって「水平右向き」髑髏の襟章を使用することとなった。 髑髏大隊ははじめ一般親衛隊扱いだったが、1941年4月22日より強制収容所監督官府と髑髏大隊はそろって武装親衛隊扱いとなり、軍人に支給される給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められた。 大戦中も次々と基幹強制収容所とその付属収容所が創設され、髑髏大隊の人員が足りなくなり、外国人ナチ協力者がどんどん動員された。特にウクライナ人とクロアチア人が多かった。戦争後期には監視兵がほとんど外国人になってしまったので、収容所内に存在した人種ヒエラルキーに基づき、監視兵よりドイツ人囚人の方が重んじられるといった事態さえも発生していた。 なおアイケは髑髏師団の師団長に就任するとともに強制収容所監督官の役職を辞した。その後、強制収容所監督官と髑髏大隊司令官の職は1939年11月から1940年8月までリヒャルト・グリュックス、1940年8月から1942年3月16日にかけてアウグスト・ハイスマイヤー、その後再びリヒャルト・グリュックスが務めた。親衛隊本部から親衛隊作戦本部(SS-FHA)が切り離されると強制収容所監督官府も作戦本部の指揮下に移行した。ついで1942年3月16日以降にはオズヴァルト・ポールの指揮する親衛隊経済管理本部(SS-WVHA)D局の傘下に入った。リヒャルト・グリュックスは、WVHAのD局局長という立場へ移行する。以降作戦本部は髑髏警備大隊の装備や軍事上の取り締まり、軍事訓練のみを担当した。 1944年5月には40歳以上の国防軍予備役軍人1万人が武装SSに転属の上、髑髏大隊に振り分けられている。戦争末期の髑髏大隊の数はおよそ3万人ほどであった。
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