戦時中の兵器生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:59 UTC 版)
東洋レーヨン(当時)は太平洋戦争中期になると、繊維工場の機械設備は修理が困難となり、また機械設備は金属類回収令 に供出されるなど経営は厳しくなった。しかし、東洋レーヨンは大戦終了後に繊維メーカーとして再起するため、あくまで化学繊維生産を通した。大戦中も、あくまで主力製品は軍需衣料、国民衣料と占領地供給衣料生産であった。 しかし、軍需産業への転出を希望する技術者を引き留めるため、機械設備供出後に遊休化した工場設備を利用して、滋賀工場において兵器生産が開始された。兵器生産は1943年(昭和18年)5月から始まり、海軍向けの九二式魚雷を月産100本、魚雷の頭部を日産125本を生産し、呉海軍工廠および舞鶴海軍工廠へ納品した。 太平洋戦争終戦後は兵器製造部門の民需転換のため車輌部として発足し、1945年(昭和20年)11月30日から滋賀工場において鉄道車両の修理が開始された。最初は戦災車両の修理・解体から始まり、鉄道省の協力により客車・貨車の修理・改造・新造のほか、私鉄車両の修理・新造、タンク車の製造などを行った。1949年(昭和24年)3月の職制改革で滋賀工場車輌部は東洋機械工業所として分離されたのち、1955年(昭和30年)3月の職制改正で東洋機械工業所は廃止された。以下に製造に関わった車両例を示す。 京阪70型電車 国鉄70系客車 国鉄タム900形貨車 国鉄タム1700形貨車 国鉄タム3200形貨車 国鉄タム3250形貨車 国鉄タム4000形貨車 車両に取り付けられる製造所銘板は、東洋レーヨン車輌部と書かれていた。
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