太平洋戦争中期
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「長鯨 (潜水母艦)」の記事における「太平洋戦争中期」の解説
1943年(昭和18年)1月上旬、第七潜水戦隊旗艦の迅鯨が内海西部に帰投した。1月15日、長鯨は呉鎮守府部隊より除かれ、第八艦隊(司令長官三川軍一中将、参謀長大西新蔵少将、参謀神重徳大佐ほか)麾下の第七潜水戦隊旗艦となる。それまでの七潜戦旗艦だった迅鯨が、交代で呉鎮守部隊に編入された。1月19日、長鯨(第七潜水戦隊司令官座乗)は内海西部を出発する(翌日、佐伯を出航)。1月26日、トラックに到着した。丁潜水部隊(第七潜水戦隊基幹)は先遣部隊指揮官(第六艦隊司令長官、旗艦香取)の直率から除かれた。2月11日にトラック泊地を出航した長鯨は、同月14日にニューブリテン島のラバウルへ進出する。以降、同方面の潜水艦作戦を支援した。 2月27日、第七潜水戦隊(兵力部署は先遣部隊丁潜水部隊)は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)に編入され、南東潜水部隊となった。呂百型潜水艦の就役と編入により、3月15日時点での第七潜水戦隊は母艦(長鯨)、第13潜水隊の7隻、伊122となる。東部ニューギニア方面への輸送任務も南東潜水部隊指揮官(第七潜水戦隊司令官)の担当となり、七潜戦所属艦と増援潜水艦はソロモン諸島や東部ニューギニア方面に展開、輸送任務や敵艦隊攻撃(増援遮断作戦)に従事した。 6月末以降、連合軍はニュージョージア諸島に来攻、ニュージョージア島の戦い(6月下旬~8月下旬)並びにブーゲンビル島の戦い(10月下旬以降)がはじまる。南東方面潜水部隊(指揮官、第七潜水戦隊司令官、旗艦長鯨)は各地への輸送任務や邀撃作戦に投入されるが、損傷艦や沈没艦が続出する。11月5日、シャーマン提督が率いる空母サラトガとプリンストンを基幹とする第38任務部隊は、ラバウルに空襲を敢行する。ラバウル在泊中の遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)の重巡洋艦部隊は大損害を受けた。特に重巡摩耶(第四戦隊)の被害は深刻で、栗田艦隊は摩耶をラバウルに残してトラック泊地に撤退した。11月10日、アメリカ軍は第38任務部隊と、モントゴメリー提督が率いる第50任務部隊により、再びラバウル空襲を敢行した。日本側は、駆逐艦涼波沈没、軽巡阿賀野損傷、駆逐艦長波大破などの損害を受ける。南東方面部隊指揮官草鹿任一中将(南東方面艦隊司令長官)は損傷艦と遊撃部隊のトラック泊地回航を命じた。11日、摩耶と長鯨は、第二水雷戦隊と第十戦隊の各艦(二水戦〈能代、五月雨、早波、藤波〉、十戦隊〈風雲、若月〉)に護衛され、ラバウルを出発した。途中、先行してラバウルを出発した軽巡阿賀野と駆逐艦浦風のうち、阿賀野が米潜水艦スキャンプの雷撃で大破したので、能代と32駆(藤波、早波)は阿賀野の救援にまわった。14日、護衛艦艇および摩耶と長鯨はトラック泊地に到着した。この後、連合軍のニューブリテン島西部攻勢によりダンピール海峡は制圧され、南東方面における日本軍の敗北は決定的となった。 トラック到着後、長鯨艦長は練習巡洋艦鹿島および特設巡洋艦護国丸を指揮し、内地へ帰投することになった。11月18日、3隻(長鯨、鹿島、護国丸)は第十戦隊所属の駆逐艦若月(第61駆逐隊)と駆逐艦山雲(第4駆逐隊)に護衛され、トラック泊地を出発する。19日朝、艦隊を追跡していた米潜水艦スカルピンを山雲が発見し、撃沈する。山雲はスカルピンの生存者41名を救助した。山雲はトラック泊地に戻っていった。25日朝、横須賀へむかう若月と分離したのち、内海西部に帰投した。11月29日、長鯨は第七潜水戦隊より除かれる。第十一潜水戦隊の旗艦となり、瀬戸内海で訓練に従事する。先遣部隊(指揮官第六艦隊司令長官)の兵力部署においては、第十一潜水部隊である。12月1日、潜水艦乗組員急速養成のため、呉潜水戦隊が再編された。呉潜水戦隊の旗艦は迅鯨となった。また鹿島も呉練習戦隊旗艦となった。
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