太平洋戦争中盤以降
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「妙高 (重巡洋艦)」の記事における「太平洋戦争中盤以降」の解説
詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 1943年(昭和18年)11月1日、連合艦隊は第五戦隊司令官大森仙太郎少将(旗艦妙高)を指揮官とする連合襲撃隊を編制し、本隊(大森少将直率:第五戦隊《妙高、羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将:川内、第27駆逐隊《時雨、五月雨、白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将:阿賀野、駆逐艦《長波、初風、若月》)、輸送隊(山代勝守大佐:駆逐艦《天霧、文月、卯月、夕凪、水無月》)という戦力でブーゲンビル島タロキナ岬に上陸したアメリカ軍に対し逆上陸計画を企図する。だが輸送隊は引き返し、主隊・第一警戒隊・第二警戒隊でアメリカ軍輸送船団の撃滅を目指した。これをアーロン・S・メリル少将率いる巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊が迎撃する。ブーゲンビル島沖海戦である。 11月1日午後11時30分以降、妙高、羽黒の偵察機が米艦隊発見を報告する。11月2日00時45分、時雨が第一警戒隊左前方から接近する米艦隊発見を報告、つづいて川内もそれを認めた。最初に米艦隊と交戦したのは第一警戒隊で、川内は00時55分には炎上して舵故障を起こし、戦闘不能となる。主隊と第二警戒隊は回避行動に専念し、午前1時7分に妙高と初風の衝突を招いた。時雨の報告から26分が経過した午前1時16分に妙高と羽黒は射撃を開始する。第五戦隊は『敵一番艦ニ命中弾数発ヲ認ムルト同時 魚雷命中ノ水柱ヲ認ム 敵二番艦魚雷二本命中撃沈 敵三(又ハ四)番艦ニ魚雷命中水柱大火災ヲ認ム』と報告しているが、軽巡デンバーに不発弾3発、駆逐艦スペンスに1発が命中して小破しただけだった。大戦果を挙げたと誤認した大森司令官は各隊に撤収を下令、米艦隊はこれを追撃して戦場に取り残されていた川内、初風を撃沈した。戦闘終了後、第五戦隊は『重巡洋艦1隻轟沈、同2隻魚雷命中撃沈確実、大型駆逐艦2隻轟沈、重巡あるいは大型駆逐艦1隻魚雷命中撃沈確実、駆逐艦1隻同士討ちで損傷、重巡1ないし2隻および駆逐艦に命中弾』と報告した。実際の損害は第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)による駆逐艦フートの大破、五戦隊によるデンバー、スペンスの小破だった。ほかにモントピリアに魚雷2本命中も不発、サッチャーの衝突により小破。戦術的(損傷艦)および戦略的(輸送船団撃滅失敗)にも本海戦は日本軍の完敗で終わった。翌朝、羽黒からは妙高の前部左舷に初風の甲板がぶらさがっている光景が見られたという。このあと、大森少将は第五戦隊司令官を解任された。 1944年(昭和19年)6月のマリアナ沖海戦、10月中旬のレイテ沖海戦等に参加する。しかし、10月24日のシブヤン海海戦で妙高は右舷後部に魚雷1本が命中し。後部発電機室、右舷機械室、右舷内外軸室などに浸水、傾斜して速力も低下し落伍した、第五戦隊旗艦は妙高から羽黒に変更され、妙高はコロンへと向かい10月25日に到着した。 11月3日、シンガポールに入港。妙高は同地で応急修理を行い、内地回航が可能となった妙高は水銀、生ゴム、ボーキサイトなどを積み、駆逐艦潮の護衛で12月12日に出港した。妙高は左舷側の2軸のみで20ノット発揮可能となっていた。12月13日夜、仏印沖で妙高はアメリカの潜水艦バーゴールの雷撃で五番砲後左舷側後部に魚雷が命中し、妙高は航行不能となった。妙高は浮上中であったバーゴールに対して主砲と高角砲で二二号電探を使用したレーダー射撃を実施し、主砲弾1発を命中させたが不発であった。一軸運転状態で妙高の曳航はできない潮はその場を去り、駆逐艦初霜と霞が救援に駆け付けた。しかし悪天候のため霞による曳航の試みは失敗し、さらに妙高の艦尾部分も切断され失われた。その後重巡洋艦羽黒が現場に到着し、羽黒に曳航されて妙高は12月25日にシンガポールに到着した。1945年1月20日、妙高は第一南遣艦隊附属となった。 その後の戦況により内地回航の意味もなくなり、妙高と同様に航行不能状態で同地に所在していた重巡洋艦高雄とともに防空艦としてシンガポールに留まることとなった。高角砲と機銃の大部分は陸上陣地に移設され、乗員は臨時陸戦隊に編成された。妙高はこの後も主缶と補機類(発電機など)は使用可能であり、自力での投揚錨、通信、電力供給などが可能な状態で終戦を迎えた。
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太平洋戦争中盤以降
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「野分 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤以降」の解説
1942年8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸し、反攻を開始。8月19日、有賀司令指揮のもと陽炎型6隻(嵐、萩風、陽炎、谷風、浦風、浜風)は陸軍一木支隊ガダルカナル島揚陸に成功する。その後も同海域にとどまっていた第4駆逐隊萩風が空襲を受けて損傷、長期離脱した。一方、第4駆逐隊第2小隊(野分、舞風)は第三艦隊・前衛部隊に所属して、8月下旬の第二次ソロモン海戦に参加。24日、第十一戦隊旗艦比叡(司令官阿部弘毅少将)の直衛として行動していた野分は敵潜水艦に爆雷攻撃を行うが、誤認であった。舞風は戦艦霧島の護衛中に爆撃を受けるが、2隻とも損傷はなかった。一連の海戦で、日本海軍は空母龍驤、駆逐艦睦月、輸送船金龍丸を喪失、水上機母艦千歳、軽巡洋艦神通が中破、ガダルカナル島への輸送作戦も失敗して敗北した。 9月上旬、野分は輸送船東亜丸の護衛任務を命じられる。護衛任務終了後の9月29日、有賀司令は舞風に移乗すると野分を率いてトラック泊地発、ソロモン諸島へ進出した。10月3日午前6時、第4駆逐隊(舞風、野分)は水上機母艦日進(丸山政男中将以下陸兵330名、軍需品搭載)を護衛してショートランド泊地発、21時前後にガダルカナル島北西部のタサファロングに到着して揚陸に成功した。だがアメリカ軍機の空襲を受けたため、急遽最新鋭の秋月型駆逐艦1番艦秋月が派遣された。秋月は4日黎明に輸送隊(日進、野分、舞風)と合流、アメリカ軍機を撃退しつつショートランド泊地まで護衛を行った。10月6日、駆逐艦6隻(第4駆逐隊《舞風、野分》、第19駆逐隊《浦波、敷波》、第10駆逐隊《秋雲、巻雲》)で陸兵550名、舞鶴第四特別陸戦隊150名、軍需物資をタサファロングに送り届ける。10月9日、軽巡洋艦龍田、駆逐艦5隻(第4駆逐隊《舞風、野分》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》)で第十七軍司令官百武晴吉中将以下約770名と軍需物資を揚陸する。帰路、アメリカ軍機(戦闘機20、艦爆9、艦攻6)に襲撃されて野分は11名の死傷者を出したが、艦そのものの損害は軽微だった。第4駆逐隊(舞風、野分)は一旦鼠輸送任務から外されて10月17日ショートランド発、10月19日トラック泊地着、その後の嵐・舞風は南雲機動部隊本隊護衛、野分は燃料補給部隊護衛任務を与えられた。 10月26日、野分は南太平洋海戦に参加する。海戦ののち駆逐艦部隊(嵐、野分、秋月、秋雲、第17駆逐隊《浦風、谷風、浜風、磯風》)は損傷艦(翔鶴、瑞鳳、熊野、筑摩)を護衛して日本に帰還し、各艦は11月6-7日に母港へ到着した。休養・補給・人事異動後の11月21日、第4駆逐隊(嵐、野分)は横須賀を出港して大分に回航。23日、揚陸艦あきつ丸を護衛して内地を出発し、12月1日ラバウルへ到着した。到着後は外南洋増援部隊に編入され、「鼠輸送(ドラム缶輸送)」に従事した。 12月3日、第二水雷戦隊司令官田中頼三少将の指揮下、第二次輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、巻波、長波、江風、涼風、嵐、野分、夕暮)を実施するが、駆逐艦巻波が空襲により損傷した。12月7日、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐の指揮下で第三次輸送作戦(嵐、野分、長波、親潮、黒潮、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明)を実施するが、ガダルカナル島付近でアメリカ軍機の空襲を受けた。野分は前部機械室右舷至近に被弾し、機関長以下17名が戦死、航行不能となった。野分は駆逐艦長波に曳航され、2隻(嵐、有明)の護衛下でショートランド泊地へ撤退した。野分を曳航したのは嵐で、対空戦闘のたびに曳航中止となるため電源もなく航行不能の野分は小銃で対空射撃をするしかなかったという証言もある。またショートランド泊地より秋月型2番艦照月も出動、深夜になり野分と合流した。この第三次輸送作戦は失敗に終わった。12月10日、第4駆逐隊は原隊に編入される。12月13日、野分は舞風に曳航され、2隻(嵐、谷風)の護衛下でショートランド泊地を出発、途中で谷風(第17駆逐隊)は引き返し、第4駆逐隊3隻はトラック泊地へ向かった。12月18日トラック泊地着。トラック島泊地到着後は同地の浮きドックに入渠。工作艦明石の協力を得て、外板の補修と推進軸系の応急修理を実施した。 翌1943年(昭和18年)1月15日、鼠輸送従事中の嵐はアメリカ軍機の空襲で被弾損傷、舞風に曳航されてショートランド泊地に避退した。2月4日、ガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)に従事していた第4駆逐隊舞風が空襲により損傷、長期修理を余儀なくされた。一方、野分はラビ方面の戦いで損傷した第27駆逐隊白露を護衛して内地へ帰投することになり、2月16日にトラック泊地を出発する。だが悪天候により白露の損傷が拡大、2隻はサイパンへ退避した。上級司令部の命令で野分は白露を残し横須賀へ帰投(2月24日着)。白露は25日にサイパンを出港し3月2日に横須賀へ到着した。母港に戻った野分は東京石川島造船所で本格修理を実施した。野分が横須賀帰港の直前(2月20日)、第4駆逐隊司令は有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐(太平洋戦争開戦時の第17駆逐隊司令)に交代した(有賀は3月1日より高雄型重巡洋艦3番艦鳥海艦長)。4月10日、開戦時より野分駆逐艦長を務めた古閑孫太郎中佐は第一掃海隊司令を命じられ(後日、古閑は第7駆逐隊司令、浜名海兵団司令等を歴任)、野分は艦長不在となった。6月10日、神風型駆逐艦5番艦旗風駆逐艦長荒木正臣少佐は旗風・野分駆逐艦長兼務を命じられた。6月25日、旗風の艦長に岡田静一少佐が任命され、艦長兼務を解かれた荒木は野分駆逐艦長に専念する。7月3日、荒木(野分艦長)は吹雪型駆逐艦潮艦長へ転任。それまでの潮艦長神田武夫中佐(潮艦長以前は高松宮宣仁親王大佐御付武官)が野分駆逐艦長となった。 神田艦長を迎えた野分の修理は7月25日に完成し、29日には横須賀港を出港。31日、大和型戦艦武蔵(連合艦隊長官古賀峯一大将座乗)、第五戦隊(妙高、羽黒)、空母雲鷹、軽巡長良、駆逐艦部隊(曙、初風、野分、白露)は内地を出発、8月5日トラック泊地へ到着した。同時期の8月6日、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐(萩風座乗)指揮下の駆逐艦4隻(第4駆逐隊《萩風、嵐》、第24駆逐隊《江風》、第27駆逐隊《時雨》)によるコロンバンガラ島輸送作戦中、アメリカ軍駆逐艦6隻に奇襲されて3隻(萩風、嵐、江風)が沈没、時雨(27駆司令原為一大佐座乗)のみ生還した(ベラ湾夜戦)。8月12日、駆逐艦2隻(野分、白露)は大型艦3隻(重巡2隻《熊野〔途中で引き返す〕、鳥海》、空母《雲鷹》)を護衛してトラック発。8月16日横須賀着。8月27日、駆逐艦2隻(野分、白露)は大型艦2隻(空母《雲鷹》、補給艦《伊良湖》)を護衛して横須賀発。9月2日トラック着。トラックに進出後は船団護衛任務についた。9月5日、生還した杉浦司令は第4駆逐隊司令駆逐艦を野分に変更した。9月15日、陽炎型2隻(萩風、嵐)を失った第4駆逐隊に朝潮型駆逐艦山雲が編入され、3隻編制(野分、舞風、山雲)となった。 10月5日、連合艦隊司令長官は第十四戦隊司令官伊澤少将(戦隊旗艦 軽巡那珂)を指揮官として、陸軍第十七師団の南東方面派遣任務『丁四号輸送部隊』の編成を下令した。作戦に従事する戦力は、第十四戦隊(那珂、五十鈴)、軽巡2隻(木曾、多摩)、駆逐艦4隻(野分、舞風、山雲、卯月《10月18日編入》)、輸送船団(栗田丸、日枝丸、護国丸、清澄丸)であった。第三輸送隊(野分、舞風、日枝丸、栗田丸)は10月10日トラック発、17日上海着、人員3320名と軍需品を搭載した。20日に出発してラバウルへ向かうが22日に栗田丸が米潜水艦に撃沈され、目的地をトラック泊地へ変更して30日に到着する。連合艦隊は戦力の再編をおこない、3隻(山雲、日威丸、神威丸)を第三輸送隊に編入、那珂指揮下の第二輸送隊に第17駆逐隊(磯風、浦風)を編入した。改編第三輸送隊は11月3日にトラックを出発したが、翌日米潜水艦の雷撃により日枝丸が損傷し、さらにラバウル空襲のため一旦トラックへ引き返し、7日に帰着する。日威丸、神威丸のラバウル進出は中止され、第4駆逐隊(野分、舞風、山雲)は日枝丸のみを護衛して9日トラックを出撃、12日ラバウルへ到着した。11月17日、第4駆逐隊司令は杉浦嘉十大佐から磯久研磨大佐に交代した(杉浦は12月1日より重巡洋艦羽黒艦長となり、ペナン沖海戦における羽黒沈没時に戦死)。 12月11日、第4駆逐隊(舞風、野分)は第三戦隊(金剛、榛名)を護衛してトラック出港、16日午前10時に佐世保へ到着した。2隻は横須賀へ回航され、18日以降横須賀で待機した。12月25日、野分駆逐艦長は守屋節司中佐に交代する(神田は、翌年1月10日より海軍水雷学校教官)。
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