太平洋戦争中盤以降とは? わかりやすく解説

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太平洋戦争中盤以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 05:36 UTC 版)

妙高 (重巡洋艦)」の記事における「太平洋戦争中盤以降」の解説

詳細は「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 1943年昭和18年11月1日連合艦隊第五戦隊司令官大森仙太郎少将旗艦妙高)を指揮官とする連合襲撃隊を編制し本隊大森少将直率:第五戦隊妙高羽黒》)、第一警戒隊(第三水雷戦隊司令官伊集院松治少将川内第27駆逐隊時雨五月雨白露》)、第二警戒隊(十戦隊司令官大杉守一少将阿賀野駆逐艦長波初風若月》)、輸送隊山代勝守大佐駆逐艦天霧文月卯月夕凪水無月》)という戦力ブーゲンビル島タロキナ岬上陸したアメリカ軍対し逆上計画企図する。だが輸送隊引き返し、主隊・第一警戒隊・第二警戒隊でアメリカ軍輸送船団撃滅目指した。これをアーロン・S・メリル少将率い巡洋艦4隻・駆逐艦8隻の艦隊迎撃するブーゲンビル島沖海戦である。 11月1日午後1130以降妙高羽黒偵察機が米艦隊発見報告する11月2日0045分時雨第一警戒左前方から接近する艦隊発見報告つづいて川内もそれを認めた最初に艦隊交戦したのは第一警戒隊で、川内0055分には炎上して故障起こし戦闘不能となる。主隊と第二警戒隊は回避行動専念し午前1時7分に妙高初風衝突招いた時雨報告から26分が経過した午前1時16分に妙高羽黒射撃開始する第五戦隊は『敵一番艦ニ命中弾数発ヲ認ムルト同時 魚雷命中水柱ヲ認ム 敵二番魚雷二本命中撃沈 敵三(又ハ四)番艦ニ魚雷命中水柱大火災ヲ認ム』と報告しているが、軽巡デンバー不発弾3発、駆逐艦スペンスに1発が命中して小破しただけだった大戦果を挙げた誤認した大森司令官各隊撤収下令、米艦隊はこれを追撃して戦場取り残されていた川内初風撃沈した戦闘終了後第五戦隊は『重巡洋艦1隻轟沈、同2隻魚雷命中撃沈確実、大型駆逐艦2隻轟沈重巡あるいは大型駆逐艦1隻魚雷命中撃沈確実、駆逐艦1隻同士討ち損傷重巡1ないし2隻および駆逐艦命中弾』と報告した実際損害第一警戒隊(川内時雨五月雨白露)による駆逐艦フート大破、五戦隊によるデンバースペンス小破だった。ほかにモントピリア魚雷2本命中も不発サッチャー衝突により小破戦術的損傷艦)および戦略的輸送船団撃滅失敗)にも本海戦日本軍完敗終わった翌朝羽黒からは妙高前部左舷初風甲板ぶらさがっている光景見られたという。このあと大森少将第五戦隊司令官解任された。 1944年昭和19年6月マリアナ沖海戦10月中旬レイテ沖海戦等に参加する。しかし、10月24日シブヤン海海戦妙高右舷後部魚雷1本が命中し後部発電機室、右舷機械室右舷内外軸室などに浸水傾斜して速力低下し落伍した第五戦隊旗艦妙高から羽黒変更され妙高コロンへと向かい10月25日到着した11月3日シンガポール入港妙高同地応急修理行い内地回航が可能となった妙高水銀生ゴムボーキサイトなどを積み駆逐艦潮の護衛12月12日出港した妙高左舷側の2軸のみで20ノット発揮可能となっていた。12月13日夜、仏印沖で妙高アメリカ潜水艦バーゴール雷撃五番砲後左舷後部魚雷命中し妙高航行不能となった妙高浮上であったバーゴールに対して主砲高角砲二二電探使用したレーダー射撃実施し主砲弾1発を命中させたが不発であった一軸運転状態で妙高曳航できない潮はその場去り駆逐艦初霜救援駆け付けた。しかし悪天候のためによる曳航試み失敗し、さらに妙高艦尾部分切断され失われたその後重巡洋艦羽黒現場到着し羽黒曳航されて妙高12月25日シンガポール到着した1945年1月20日妙高第一南遣艦隊附属となったその後の戦況により内地回航の意味なくなり妙高同様に航行不能状態で同地所在していた重巡洋艦高雄とともに防空艦としてシンガポール留まることとなった高角砲機銃大部分陸上陣地移設され、乗員臨時陸戦隊編成された。妙高この後主缶補機類発電機など)は使用可能であり、自力での投揚錨通信電力供給など可能な状態で終戦迎えた

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太平洋戦争中盤以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:56 UTC 版)

野分 (陽炎型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争中盤以降」の解説

1942年8月7日アメリカ軍ガダルカナル島フロリダ諸島上陸し反攻開始8月19日有賀司令指揮のもと陽炎型6隻(嵐、萩風陽炎谷風浦風浜風)は陸軍一木支隊ガダルカナル島揚陸成功するその後も同海域とどまっていた第4駆逐隊萩風空襲受けて損傷長期離脱した一方、第4駆逐隊第2小隊野分舞風)は第三艦隊前衛部隊所属して8月下旬第二次ソロモン海戦参加24日第十一戦隊旗比叡司令官阿部弘毅少将)の直衛として行動していた野分は敵潜水艦爆雷攻撃を行うが、誤認であった舞風戦艦霧島護衛中爆撃を受けるが、2隻とも損傷はなかった。一連の海戦で、日本海軍空母龍驤駆逐艦睦月輸送船金龍丸を喪失水上機母艦千歳軽巡洋艦神通中破ガダルカナル島への輸送作戦失敗して敗北した9月上旬野分輸送船東亜丸護衛任務命じられる護衛任務終了後9月29日有賀司令舞風移乗する野分率いてトラック泊地発、ソロモン諸島進出した10月3日午前6時、第4駆逐隊舞風野分)は水上機母艦日進丸山政男中将下陸330名、軍需品搭載)を護衛してショートランド泊地発、21前後ガダルカナル島北西部のタサファロングに到着して揚陸成功した。だがアメリカ軍機の空襲受けたため、急遽最新鋭秋月型駆逐艦1番艦秋月派遣された。秋月4日黎明輸送隊日進野分舞風)と合流アメリカ軍機を撃退しつつショートランド泊地まで護衛行った10月6日駆逐艦6隻(第4駆逐隊舞風野分》、第19駆逐隊浦波敷波》、第10駆逐隊秋雲巻雲》)で陸兵550名、舞鶴第四特別陸戦隊150名、軍需物資をタサファロングに送り届ける10月9日軽巡洋艦龍田駆逐艦5隻(第4駆逐隊舞風野分》、第15駆逐隊親潮黒潮早潮》)で第十軍司令官百武晴吉中将以下約770名と軍需物資揚陸する。帰路アメリカ軍機(戦闘機20艦爆9、艦攻6)に襲撃され野分11名の死傷者出したが、艦そのもの損害軽微だった。第4駆逐隊舞風野分)は一旦鼠輸送任務から外され10月17日ショートランド発、10月19日トラック泊地着、その後の嵐・舞風南雲機動部隊本隊護衛野分燃料補給部隊護衛任務与えられた。 10月26日野分南太平洋海戦参加する海戦ののち駆逐艦部隊(嵐、野分秋月秋雲、第17駆逐隊浦風谷風浜風磯風》)は損傷艦翔鶴瑞鳳熊野筑摩)を護衛して日本帰還し、各艦は11月6-7日に母港到着した休養補給人事異動後の11月21日、第4駆逐隊(嵐、野分)は横須賀出港して大分に回航23日揚陸艦あきつ丸護衛して内地出発し12月1日ラバウル到着した到着後は外南洋増援部隊編入され、「鼠輸送ドラム缶輸送)」に従事した12月3日第二水雷戦隊司令官田中頼三少将指揮下、第二次輸送作戦親潮黒潮陽炎巻波長波江風涼風、嵐、野分夕暮)を実施するが、駆逐艦巻波空襲により損傷した12月7日、第15駆逐隊司令佐藤寅治大佐指揮下で第三次輸送作戦(嵐、野分長波親潮黒潮陽炎浦風谷風江風涼風有明)を実施するが、ガダルカナル島付近アメリカ軍機の空襲受けた野分前部機械室右舷至近被弾し機関長以下17名が戦死航行不能となった野分駆逐艦長波に曳航され、2隻(嵐、有明)の護衛下でショートランド泊地撤退した野分曳航したのは嵐で、対空戦闘のたびに曳航中止となるため電源もなく航行不能野分小銃対空射撃をするしかなかったという証言もある。またショートランド泊地より秋月型2番照月出動深夜になり野分合流した。この第三次輸送作戦失敗終わった12月10日、第4駆逐隊原隊編入される12月13日野分舞風曳航され、2隻(嵐、谷風)の護衛下でショートランド泊地出発途中で谷風(第17駆逐隊)は引き返し、第4駆逐隊3隻はトラック泊地向かった12月18日トラック泊地着。トラック島泊地到着後は同地浮きドック入渠工作艦明石協力得て外板補修推進軸系の応急修理実施した。 翌1943年昭和18年1月15日鼠輸送従事中の嵐はアメリカ軍機の空襲被弾損傷舞風曳航されてショートランド泊地避退した。2月4日ガダルカナル島撤退作戦ケ号作戦)に従事していた第4駆逐隊舞風空襲により損傷長期修理余儀なくされた。一方野分ラビ方面戦いで損傷した第27駆逐隊白露護衛して内地帰投することになり、2月16日トラック泊地出発する。だが悪天候により白露の損傷拡大、2隻はサイパン退避した上級司令部命令野分白露残し横須賀帰投2月24日着)。白露25日サイパン出港し3月2日横須賀到着した母港戻った野分東京石川島造船所本格修理実施した野分横須賀帰港直前2月20日)、第4駆逐隊司令有賀幸作大佐から杉浦嘉十大佐太平洋戦争開戦時の第17駆逐隊司令)に交代した有賀3月1日より高雄型重巡洋艦3番鳥海艦長)。4月10日開戦時より野分駆逐艦長務めた古閑孫太郎中佐第一掃海隊司令命じられ後日古閑は第7駆逐隊司令浜名海兵団司令等を歴任)、野分艦長不在となった6月10日神風型駆逐艦5番旗風駆逐艦長荒木正少佐旗風野分駆逐艦長兼務命じられた。6月25日旗風艦長岡田静少佐任命され艦長兼務解かれ荒木野分駆逐艦長専念する7月3日荒木野分艦長)は吹雪型駆逐艦艦長転任それまでの潮艦長神田武夫中佐(潮艦長以前高松宮宣仁親王大佐御付武官)が野分駆逐艦長となった神田艦長迎えた野分修理7月25日完成し29日には横須賀港出港31日大和型戦艦武蔵連合艦隊長官古賀峯一大将座乗)、第五戦隊妙高羽黒)、空母雲鷹軽巡長良駆逐艦部隊(曙、初風野分白露)は内地出発8月5日トラック泊地到着した同時期の8月6日、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐萩風座乗指揮下の駆逐艦4隻(第4駆逐隊萩風、嵐》、第24駆逐隊江風》、第27駆逐隊時雨》)によるコロンバンガラ島輸送作戦中、アメリカ軍駆逐艦6隻に奇襲されて3隻(萩風、嵐、江風)が沈没時雨27司令原為一大佐座乗)のみ生還したベラ湾夜戦)。8月12日駆逐艦2隻(野分白露)は大型艦3隻(重巡2隻《熊野途中で引き返す〕、鳥海》、空母雲鷹》)を護衛してトラック発。8月16日横須賀着。8月27日駆逐艦2隻(野分白露)は大型艦2隻(空母雲鷹》、補給艦伊良湖》)を護衛して横須賀発。9月2日トラック着。トラック進出後は船団護衛任務についた9月5日生還した杉浦司令は第4駆逐隊司令駆逐艦野分変更した9月15日陽炎型2隻(萩風、嵐)を失った第4駆逐隊朝潮型駆逐艦山雲編入され、3隻編制野分舞風山雲となった10月5日連合艦隊司令長官第十四戦隊司令官伊澤少将戦隊旗艦 軽巡那珂)を指揮官として陸軍第十七師団南東方面派遣任務『丁四号輸送部隊』の編成下令した。作戦従事する戦力は、第十四戦隊那珂五十鈴)、軽巡2隻(木曾多摩)、駆逐艦4隻(野分舞風山雲卯月10月18日編入》)、輸送船団栗田丸、日枝丸護国丸清澄丸)であった第三輸送隊野分舞風日枝丸栗田丸)は10月10日トラック発、17日上海着、人員3320名と軍需品搭載した20日出発してラバウルへ向かうが22日栗田丸が米潜水艦撃沈され、目的地トラック泊地変更して30日到着する連合艦隊戦力再編おこない、3隻(山雲、日威丸、神威丸)を第三輸送隊編入那珂指揮下の第二輸送隊に第17駆逐隊磯風浦風)を編入した。改編第三輸送隊11月3日トラック出発したが、翌日潜水艦雷撃により日枝丸損傷し、さらにラバウル空襲のため一旦トラック引き返し7日帰着する。日威丸、神威丸のラバウル進出中止され、第4駆逐隊野分舞風山雲)は日枝丸のみを護衛して9日トラック出撃12日ラバウル到着した11月17日、第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐から磯久研磨大佐交代した杉浦12月1日より重巡洋艦羽黒艦長となり、ペナン沖海戦における羽黒沈没時に戦死)。 12月11日、第4駆逐隊舞風野分)は第三戦隊(金剛榛名)を護衛してトラック出港16日午前10時佐世保到着した。2隻は横須賀回航され、18日以降横須賀待機した12月25日野分駆逐艦長守屋節司中佐交代する神田は、翌年1月10日より海軍水雷学校教官)。

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