原為一とは? わかりやすく解説

原為一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/01 14:11 UTC 版)

原 為一
生誕 1900年10月16日
日本香川県
死没 1980年10月10日
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1922年 - 1945年
最終階級 海軍大佐
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原 為一(はら ためいち、1900年明治33年)10月16日 - 1980年昭和55年)10月10日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大佐

経歴

香川県出身。高松中学校を経て、1921年(大正10年)7月、海軍兵学校49期)を卒業。翌年5月に海軍少尉任官。海軍水雷学校高等科を卒業し、駆逐艦秋風」「吹雪」「韓崎」の各水雷長、水雷学校教官などを経て、1933年(昭和8年)11月、海軍少佐に進級。駆逐艦「夕凪」「長月」「綾波艦長などを歴任し、太平洋戦争を駆逐艦「天津風」艦長として迎えた。

第二十七駆逐隊司令を経て、1943年(昭和18年)5月に海軍大佐となった。水雷学校教官、兼川棚警備隊司令を歴任し、1944年(昭和19年)12月に第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦矢矧」艦長に就任。1945年(昭和20年)4月6日、天一号作戦に参加し戦艦大和」及び第二水雷戦隊所属の駆逐艦8隻と共に沖縄へ出撃した。4月7日に坊ノ岬沖海戦アメリカ海軍第58任務部隊空襲により矢矧は撃沈されたが、同艦座乗の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将と共に生還した。その後は川棚突撃隊(震洋)司令を経て、第31突撃隊司令として終戦を迎え、同年11月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放の仮指定を受けた[1]

著書

  • 『帝國海軍の最後 - 矢矧艦長の実戦記録』河出書房、1955年。
    • 英訳書:Hara, Tameichi (1961). Japanese Destroyer Captain. New York & Toronto: Ballantine Books. ISBN 0-345-27894-1.
  • 『帝國海軍の最後』河出書房新社、1962年。復刻新版2011年、秦郁彦解説/河出文庫、2025年7月

メディア

  • 「よみがえる戦争の記憶」(テレビ朝日 2009年6月14日)

脚注

  1. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、12頁。NDLJP:1276156 

参考文献





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