オランダによる運航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:59 UTC 版)
「オプテンノール (船)」の記事における「オランダによる運航」の解説
オプテンノールは、はじめオランダの植民地支配下にあるジャワ島のバタヴィア=シンガポール=バンコク=サイゴン=マニラ=モルッカ諸島=バリ島=バタヴィアを巡る周回航路に就役した。その後、姉妹船とともにスラバヤからバタヴィアなどジャワ島北岸の数港やブラワン(メダンの外港)を経由して、イギリスの植民地であるシンガポールに至る航路に使われ、現地のオランダ人に親しまれた。 なお1940年5月15日に第二次世界大戦でドイツ軍の侵攻を受けたオランダ本国政府は降伏し、政府は王室ともどもイギリスのロンドンに亡命し亡命政府を樹立しており、植民地政府とそこに駐留していたオランダ軍、そして本船は亡命政府の指揮下に入ることとなった。 1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発すると、オランダ海軍は開戦当日に本船を徴用し、バタヴィアで病院船としての改装工事を施した。オプテンノールを病院船とすることは1942年2月4日に日本側に通告され、オプテンノールは2月19日に病院船として就役した。2月20日に、磁気機雷対策用の舷外電路を装着するためスラバヤ軍港に入港したが、直後に日本軍機の空襲に見舞われ、至近弾で損傷、軍医や従軍看護婦ら13人が死傷した。 2月28日、スラバヤ沖海戦における負傷兵救助のため航行中、日本の駆逐艦の臨検を受けた。第五戦隊(司令官高木武雄少将、旗艦那智)の記録では、オプテンノールを臨検したのは第四水雷戦隊(四水戦司令官西村祥治少将、旗艦那珂)所属の第2駆逐隊・白露型駆逐艦4番艦夕立となっているが、実際には白露型3番艦村雨(第2駆逐隊)である。また原為一(当時、天津風駆逐艦長。海軍中佐)の回想では、同艦のオプテンノール臨検はスラバヤ沖海戦前の2月26日となっている。臨検のためオプテンノールに乗りこんだ岩淵吾郎(当時、天津風水雷長)は、スラバヤ沖海戦の後だと回想している。 当時、スラバヤ沖合で行動していた第二水雷戦隊(二水戦司令官田中頼三少将、旗艦神通)の報告によれば、陽炎型駆逐艦7番艦初風と陽炎型9番艦天津風(2隻とも第二水雷戦隊、第16駆逐隊所属)による臨検は2月28日夕方で、オプテンノールを臨検中の村雨(四水戦・第2駆逐隊)を発見後、第16駆逐隊第2小隊(天津風、初風)は一旦引き返す。だが第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(那珂)より第二水雷戦隊(神通)に依頼があり、田中(二水戦司令官)は再び天津風を派遣してオプテンノールを抑留させた。天津風側の結論は「指定海域(バウエン島北方海域)に碇泊後、3月1日以後は自由行動を許可す」であった。日本海軍の命令に、オプテンノールも一旦は従った。 しかし3月1日、オランダ側乗員は「救助活動ができないのならば指定海域にとどまる意味はない」と考え、オーストラリアのパースへ向かおうと航行を再開した。日本側はオプテンノールの行為を「指示を無視して逃亡する行為」と判断し、威嚇爆撃により停船させた。水上機母艦千歳搭載の零式水上偵察機搭乗員(山崎力義、二飛曹)によれば、『朝方のこのこ戦闘海域に入ってきた病院船』が指定停泊地点から東方に向けて逃走しつつあるのを発見、英文で警告したが反応がなく、針路上に60kg爆弾2発を投下して機銃掃射をおこなったと回想している。第三艦隊司令長官高橋伊望中将(旗艦足柄)は、指揮下の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)に対し「天津風をもってオプテンノールを護送せよ」と命じる。この命令に従い天津風(第16駆逐隊)は同日夜にオプテンノールと再合流、同船をバンジャルマシンへ連行した。なお、病院船に対する臨検や航路指示は交戦国の権利として認められており、重大な事情があり必要があれば抑留することも可能だった。 3月2日夕刻、2隻(天津風、オプテンノール)はバンジャルマシンに到着、本船は同地で敷設艦蒼鷹に引き渡された。なおスラバヤ沖海戦で沈没した連合軍艦艇生存者は、日本側駆逐艦(雷、電)等に救助されたあと、一部はオプテンノールに集められた。
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