スラバヤ沖海戦
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スラバヤ沖海戦(スラバヤおきかいせん、英語: Battle of the Java Sea、オランダ語: Slag in de Javazee)は、太平洋戦争最初の水上部隊間の海戦である。1942年2月27日に勃発した。当時、日本軍はジャワ島の攻略に向かっており、その輸送船団を護衛するために艦隊が派遣された。そしてスラバヤ沖でカレル・ドールマン司令官率いるアメリカ、イギリス、オランダ、オーストラリア連合艦隊と遭遇し攻撃を受けた事で戦いが勃発。日本側は高木武雄司令官率いる巡洋艦4隻と駆逐艦14隻であり、連合国側は巡洋艦5隻と駆逐艦10隻であった。戦いは7時間にわたって続き、その砲撃戦や魚雷戦は結局日本側の勝利に終わり、連合国側は巡洋艦2隻と駆逐艦5隻が沈没し、ドールマン司令官は戦死した。一方日本側の被害は駆逐艦1隻の損傷であった[1]。
注釈
- ^ 第五戦隊は妙高型重巡洋艦4隻(妙高、那智、足柄、羽黒)で編制されていたが、足柄は太平洋戦争開戦直前の1941年10月10日付で第三艦隊に編入され、同艦隊旗艦となった[22]。また開戦直後の1942年1月4日にダバオ停泊中の妙高がB-17の爆撃により損傷して内地に帰投[23]、しばらく那智(旗艦)と羽黒の2隻で行動していた[24]。
- ^ 第24駆逐隊の駆逐艦海風は輸送船団護衛を続行し、砲雷撃戦には関与せず。24駆所属の涼風は損傷修理のため不在。
- ^ 第9駆逐隊には駆逐艦夏雲が所属するが、同艦は輸送船団護衛に従事しており砲雷撃戦には関与せず。
- ^ 妙高の修理は2月19日完了、翌20日に佐世保を出発してスラウェシ島マカッサルにむかった[23]。2月26日、マカッサル到着[25]。
- ^ 松風は第五水雷戦隊麾下の第5駆逐隊所属だが、28日より龍驤の護衛に派遣されていた[26]。
- ^ この際アメリカ・イギリス・オーストラリアの士官達がオランダ語を話せない為、ドールマン少将は流暢に話すことができた英語にて説明を行った[29]。
- ^ 第五戦隊部隊(重巡〈那智、羽黒〉、駆逐艦〈山風、江風、潮、漣〉)、二水戦(軽巡神通、第16駆逐隊〈雪風、時津風、初風、天津風〉)、四水戦(軽巡那珂、第2駆逐隊〈村雨、五月雨、春雨、夕立〉、第9駆逐隊〈朝雲、峯雲〉)。
- ^ 第8駆逐隊所属の大潮と満潮はバリ島沖海戦で損傷し、不在。
- ^ 既にシンガポールは陥落しており、マラッカ海峡通過は不可能だった。
- ^ 駆逐艦ヴィテ・デ・ヴィットは3月2日、日本軍の空襲により撃沈された。
- ^ 同じく雪風に救助されたデ・ロイテルの下士官が軍事的な話も全て喋ってしまったので、スペンサー大尉の黙秘は無駄になった。
出典
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スラバヤ沖海戦
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「Battlestations: Pacific」の記事における「スラバヤ沖海戦」の解説
敵の駆逐艦主力の大型攻撃部隊から輸送船と護衛の駆逐艦を守る。
※この「スラバヤ沖海戦」の解説は、「Battlestations: Pacific」の解説の一部です。
「スラバヤ沖海戦」を含む「Battlestations: Pacific」の記事については、「Battlestations: Pacific」の概要を参照ください。
スラバヤ沖海戦
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「ヒューストン (重巡洋艦)」の記事における「スラバヤ沖海戦」の解説
「スラバヤ沖海戦」も参照 1942年(昭和17年)2月中旬、ABDA海軍部隊の指揮官はハート提督(アメリカ海軍)からコンラッド・ヘルフリッヒ(英語版、オランダ語版)中将(オランダ海軍)に交代した。日本軍はジャワ島占領を目的として陸軍の上陸船団部隊を派遣する。その報を受けたドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)は上陸を阻止するため、オランダ軽巡デ・ロイテル (HNLMS De Ruyter) 、オランダ軽巡ジャワ (HNLMS Java) 、ヒューストン、オーストラリア軽巡パース (HMAS Perth, D29) 、イギリス重巡エクセター (HMS Exeter, 68) 、および英駆逐艦3隻、和蘭駆逐艦3隻、米駆逐艦5隻の多国籍艦隊を率い、2月26日に出撃する。2月27日夕刻、多国籍艦隊は日本軍輸送船団を護衛していた第五戦隊司令官高木武雄少将が指揮する妙高型重巡洋艦2隻(那智、羽黒)と、二つの水雷戦隊(二水戦、四水戦)に遭遇した(スラバヤ沖海戦)。 米英蘭豪連合艦隊(ABDA艦隊)は奮戦したものの、航空援護の不足、多国籍艦隊ゆえの訓練不足という弱点を抱えていた。両艦隊は夕方に遭遇し、17時45分に軽巡神通(二水戦司令官田中頼三少将)が砲撃を開始した。両軍は砲撃戦を開始し、18時38分、エクセターに妙高型重巡の8インチ砲弾が命中、その混乱で陣形が乱れる。駆逐艦エレクトラ (HMS Electra, H27) はエクセターを援護する間に四水戦麾下の第9駆逐隊と交戦、やがて沈没した。18時45分には駆逐艦コーテニアー (HNLMS Kortenaer) に魚雷が命中して轟沈、米英蘭豪艦隊は戦場を離脱した。 両軍は夜戦に入り、22時55分に駆逐艦ジュピター (HMS Jupiter, F85) が触雷し沈没した。その後エンカウンター (HMS Encounter, H10) はコーテニアーの生存者救助に当たり、エクセターと駆逐艦4隻はスラバヤへ退避した。護衛の駆逐艦が無くなったドールマン少将の艦隊は、日本軍のジャワ侵攻阻止のため巡洋艦4隻(デ・ロイテル、ジャワ、パース、ヒューストン)を率いて北へ向かう。 翌28日の0時33分に艦隊は再び日本艦隊と遭遇した。約20分の砲戦に続いて那智と羽黒が酸素魚雷を発射、デ・ロイテルとジャワに命中して両艦は沈没した。ドールマン少将はデ・ロイテルと運命を共にしたが、沈没前にパースとヒューストンに退却を命じていた。
※この「スラバヤ沖海戦」の解説は、「ヒューストン (重巡洋艦)」の解説の一部です。
「スラバヤ沖海戦」を含む「ヒューストン (重巡洋艦)」の記事については、「ヒューストン (重巡洋艦)」の概要を参照ください。
スラバヤ沖海戦
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詳細は「スラバヤ沖海戦」を参照 佐藤康夫(当時海軍大佐、第9駆逐隊司令)は、1942年(昭和17年)2月27日-3月1日に起きた『スラバヤ沖海戦』で名を馳せた。2月27日昼戦において、第五戦隊(重巡那智、羽黒)、第二水雷戦隊(司令官田中頼三少将:軽巡神通)、第四水雷戦隊(司令官西村祥治少将:軽巡那珂)は酸素魚雷の長射程を頼りに一万m以上で魚雷を発射した。高木少将からの全軍突撃命令がくだされたあとの第四水雷戦隊子隊の第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)による雷撃も、距離8000mほどだった。ところが第四水雷戦隊・第9駆逐隊(佐藤司令)は指揮下の駆逐艦2隻(朝雲、峯雲)を率いて、さらに敵艦隊に接近した。日本艦隊の他隊が次々に魚雷を発射し反転していくのを見て、朝雲水雷長が「司令、もう撃ちましょう」と何度も催促するのを「もうちっと、もうちっと」と発射の号令を下さなかった。仮屋貞雄大尉(朝雲砲術長)によれば、岩橋透中佐(朝雲艦長)が「第2駆逐隊と同じく距離8000mでの発射と退避」を進言したのに対して佐藤司令は「艦長、後ろを見るな」と一言し、肉薄攻撃を続けた。5000m(戦史叢書では6000m)まで接近したところで魚雷を発射。しかし尚も反転せずにそのまま直進を続け敵艦隊に肉薄しつづけた。これに対して連合軍艦隊から、イギリスの駆逐艦エンカウンター(HMS Encounter, H10) とエレクトラ(HMS Electra,H27)が反撃した。距離3000mでの砲撃戦でエレクトラは航行不能となったが、反撃の一弾が「朝雲」の機械室に命中し、電源故障を起こした。電源が止まった朝雲ではあったが、佐藤大佐の「砲は人力で操作せよ、砲撃を続行せよ」との命令の下、砲塔の各個照準砲撃と「峯雲」の砲撃により、ついにエレクトラを撃沈した。9駆(朝雲、峯雲)の活躍を見ていた村雨水雷長(第2駆逐隊)は佐藤司令の一瞬の決心と実行力に感嘆している。2月27日昼戦の日本側指揮官であった第五戦隊司令官高木武雄少将もこの第9駆逐隊と佐藤大佐の奮闘ぶりを特筆し、称賛している。もっとも第9駆逐隊は、エレクトラ撃沈・エンカウンター撃退の戦果に対し、軽巡1隻・駆逐艦2隻の撃沈を報告しており、戦果検討の席上で異論に対し佐藤が「遠くへ逃げてばかりいた奴になにがわかるか!」と怒鳴り付けた一幕もあった。
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スラバヤ沖海戦
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「那珂 (軽巡洋艦)」の記事における「スラバヤ沖海戦」の解説
詳細は「スラバヤ沖海戦」を参照 1942年2月末、ジャワ島占領のためジャワ島東部へ陸軍第48師団と坂口支隊を輸送することとなり、第五戦隊(那智、羽黒、妙高)、第二水雷戦隊(旗艦:神通)、第四水雷戦隊(旗艦那珂)などからなる護衛艦隊がその護衛についた。 2月27日、輸送艦隊はマカッサル海峡を南下してジャワ海を航行していた。連合国軍のABDA艦隊はこれを迎撃すべくスラバヤを出撃したが、連日の戦闘配置により乗員の疲労が高まっていたこともあり、カレル・ドールマン司令官は補給のため一旦艦隊をスラバヤへ帰投させることにした。基地航空隊から『敵巡洋艦五隻、駆逐艦六隻接近』の報告を受けた第五戦隊司令官高木武雄少将は、第五戦隊(那智、羽黒)・第二水雷戦隊(神通、第16駆逐隊《雪風、時津風、初風、天津風》、臨時編入艦《潮、漣、山風、江風》)・第四水雷戦隊各隊に戦闘準備を下令する。12時5分(現地時間。以下同じ)、那智の水偵が連合軍艦隊を発見し日本艦隊に位置を通報した。第四水雷戦隊も輸送船団の護衛を若鷹に任せて、敵艦隊に向かう第五戦隊に合流しようとしたが、連合軍艦隊が輸送船団の攻撃に向かっているのか、帰投しようとしているのか判断しかねており、四水戦は反転して一旦輸送船団護衛に戻った。一方、連合軍艦隊はスラバヤに入港しようとしたところ日本軍船団発見の報を受けて反転。日本艦隊も那智機の報告を受けて敵艦隊との会敵予想針路を取った。第四水雷戦隊は那智機の電報を受信するのが遅れ、西村司令官は船団護衛を第24駆逐隊司令と指揮下2隻(海風、夏雲)に任せると那珂・第9駆逐隊(朝雲、峯雲)・第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨、夕立)を率い、第五戦隊・第二水雷戦隊の後を追って予想会敵地点へ向かった。 16時(1750)ごろ第四水雷戦隊は戦闘戦域に到着、退避する神通以下第二水雷戦隊の前を突っ切って連合国軍艦隊に接近した。四水戦は距離15,000mで一斉に27発の魚雷を発射、神通は四水戦の外側から魚雷4本を発射したがいずれも自爆、だが日本側は大口径砲か機雷の爆発とみて混乱する。遠距離砲戦を繰返しながら時間が経過していくうち、連合軍艦隊が態勢を立て直すために変針したのを見て、高木少将は『全軍突撃セヨ』を下令した。日本艦隊は、四水戦―二水戦―第五戦隊という順番で突撃を開始。旗艦那珂は連合軍艦隊に距離12000mまで近づくと魚雷4本を発射して避退、四水戦の子隊である第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は更に接近する。第2駆逐隊は距離10000〜7500mで魚雷を発射、佐藤康夫9駆司令指揮下の第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は距離6000mまで近づいて魚雷を発射したが、これらは命中しなかった。しかしドールマン少将が英重巡エクセターを避退させるために英駆逐艦2隻(エレクトラ、エンカウンター)に攻撃を下令し、英駆逐艦2隻と第9駆逐隊(朝雲、峯雲)は3000mで砲戦を交えた。第9駆逐隊(朝雲、峯雲)はエレクトラを撃沈、エンカウンターを避退させたが朝雲も損傷した。この頃の戦闘海域は砲煙と煙幕と日没が重なって視界は極度に悪化、日本艦隊司令官達は輸送船団の反転と、配下駆逐隊の集結を命じた。スラバヤ沖海戦はその日の日没後、および3月1日にも戦闘があったが、これらに四水戦は関わっていない。 3月、第四水雷戦隊はジャワ島とセレベス島の間の海域の哨戒任務に就いた。
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