海戦経過(2月27-28日)
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「スラバヤ沖海戦」の記事における「海戦経過(2月27-28日)」の解説
27日 14:05、那智水偵が連合軍艦隊発見。 16:59、神通が敵艦のマストを発見。(第一次昼戦) 17:45、16800mで神通砲撃開始。 17:47、26000mで第五戦隊砲撃開始。連合軍も砲撃を開始。 17:50、第二水雷戦隊はいったん退避。 18:04、第四水雷戦隊は魚雷を発射。戦果無し。第五戦隊は遠距離からの砲撃を続けたため、損害を与えられず。 18:22、羽黒魚雷発射。 18:37、高木少将、全軍突撃を命令。 18:38、エクセターに命中弾。速度低下、左へ変針。後続艦も変針命令が出たものと勘違いして変針。 18:45、コルテノールに魚雷命中、沈没する。連合軍艦隊は戦場離脱。 19:15、第五戦隊、連合軍を捕捉、砲撃開始。日本艦隊は魚雷を発射するも、一本も命中せず。 19:40、連合軍も反撃し、朝雲に命中弾。 19:50、日没 19:54、朝雲と峯雲によりエレクトラ沈没。両軍、夜戦準備に入る。 20:55、連合軍は那智、羽黒を発見し攻撃開始。水偵収容中の那智と羽黒は退避。(第一次夜戦)エクセター、駆逐艦4隻はスラバヤへ退避。 22:55、ジュピター、オランダ軍の機雷により沈没。 28日 00:33、第五戦隊、連合軍巡洋艦4隻を発見。(第二次夜戦) 00:50、12,000mで同航戦に入る。 00:53、那智、羽黒魚雷発射。 01:09、デ・ロイテル、ジャワに魚雷が命中、沈没。司令官ドールマン少将が戦死する。ヒューストン、パースは離脱。
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海戦経過
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「第1次ナルヴィク海戦」の記事における「海戦経過」の解説
イギリスの駆逐艦はハーディ、ハンター、ハヴォックの順でナルヴィク港入り口に入り、港内の艦船に対して攻撃をおこなった。残りの2隻、ホスタイルとホットスパーは港の北側を調べに向かった。 まずハーディが3本の魚雷を発射した。そのうちの1本がドイツ側の旗艦ヴィルヘルム・ハイドカンプに命中し、弾薬が誘爆して、座乗していたナルヴィク攻略部隊の指揮官フリードリヒ・ボンテ代将も戦死した。残り2本の内1本は商船に命中した。ハーディはさらに4本の魚雷を発射したがこれはすべて外れた。続いてハンターが8本の魚雷を発射し、駆逐艦アントン・シュミットに1本命中させた。また砲撃でもアントン・シュミットに命中弾を与えた。次いでハヴォックが港内に入り、3本の魚雷を発射した。内1本がアントン・シュミットに命中した。アントン・シュミットは爆沈し、その影響で近くにいたヘルマン・キュンネは航行不能となった。残り2本の魚雷は商船に命中した。また、ハヴォックはハンス・リューデマンに2発の命中弾を与えた。港の北の調査に向かっていたホスタイルとホットスパーも何も発見できなかったことから攻撃に加わった。ホットスパーは4本の魚雷を発射し、2本が商船に命中した。ホスタイルはディーター・フォン・レーダーに2発の命中弾を与えた。この後も砲戦は続き、ディーター・フォン・レーダーはさらに命中弾を受けた。5時5分、ディーター・フォン・レーダーは8本の魚雷を発射したが命中しなかった。イギリス側は煙で港内の様子がわからなくなったため一旦港外に出た。この時点でイギリス側に命中弾を受けた艦はなかった。 各艦の残存魚雷半数を確認し、港内の敵はほぼ撃破し港外には敵は見当たらないためウォーバートン=リーは撤退前にもう一度攻撃することを決めた。この攻撃の際、ホスタイルは4本の魚雷を発射した。ハンス・リューデマンも4本の魚雷を発射したが命中しなかった。また、ホスタイルが命中弾1発を受けた。 イギリス軍の攻撃が始まってから約1時間後、ヘリヤンクスフィヨルドからエリッヒ・バイ中佐(第4駆逐隊司令)指揮するドイツ駆逐艦ヴォルフガング・ツェンカー、エーリッヒ・ケルナー、エーリッヒ・ギーゼが現れた。5時40分にハーディとハヴォックがそれを発見し、ウォーバートン=リーは撤退を命じた。ドイツ駆逐艦と、西へ退避するイギリス駆逐艦は交戦したが、共に命中弾は得られなかった。 バランゲンフィヨルドに停泊していたフリッツ・ベルガー中佐(第1駆逐隊司令)指揮のドイツ駆逐艦ゲオルク・ティーレとベルント・フォン・アルニムは5時50分にバランゲンフィヨルドを出た。ウォーバートン・リーはこの2隻の駆逐艦を味方の増援だと誤認した。5時57分、ドイツ駆逐艦は砲撃を開始した。まず、ハーディが命中弾を受けた。艦橋への命中弾でバーナード・ウォーバートン=リー大佐も致命傷をおった。大きな損害を受けたハーディは南に向かい岸に乗り上げた。ゲオルク・ティーレとベルント・フォン・アルニムはイギリス駆逐艦の前を横切って東方向へ向かい、後方のイギリス駆逐艦も戦闘に加わった。この間にハヴォックが5本、ホスタイルが4本、ゲオルク・ティーレは2本、ベルント・フォン・アルニムが1本の魚雷を発射したが、これらはすべて外れた。それから、ドイツ駆逐艦2隻は取り舵を取って西に向きを変えた。ゲオルク・ティーレがボイラー室に命中弾を受け、ハンターも被弾炎上した。ドイツ駆逐艦はイギリス駆逐艦の前に出た。ゲオルク・ティーレは3発被弾したが、3本の魚雷を発射し、1本がハンターに命中した。その後ろを航行していたホットスパーは2本の魚雷を発射した直後に被弾し、操艦不能となって6時15分頃ハンターと衝突した。この頃にはバイ中佐が率いる駆逐艦も再び戦闘に加わり、ハンターとホットスパーは5隻の駆逐艦による攻撃を受けた。ハンターとホットスパーも反撃し、ベルント・フォン・アルニムに命中弾を与えた。 ホットスパーはハンターと離れることに成功し、ハヴォックとホスタイルに援護されてフィヨルド外へ退避していった。ハンターは沈没した。ドイツ側は深刻な燃料不足などもあって追撃を断念した。 退避中、イギリスの駆逐艦は弾薬を積んだドイツ船ラウェンフェルス(Rauenfels、8,460 BRT)を発見し沈めた。
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海戦経過
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12月17日中にイアキーノの元にはイギリス艦隊に関する情報が届いたが、それではブレコンシャーを戦艦と誤認していた。さらに、1隻しか報告されていないにもかかわらず、イアキーノ提督は「イギリス戦艦3隻がイタリア船団の攻撃に向かっている」と判断した。実際には、地中海艦隊の主力艦は護衛駆逐艦不足のためアレクサンドリアに留め置かれていた。イアキーノの部隊は速度を上げ南へ向かった。 一方、ヴァイアン少将もイタリア艦隊の情報を得て、会敵の可能性を下げるため南西へ向かった。イギリス艦隊はドイツ空軍とイタリア空軍の航空部隊による攻撃を何度も受けたが、損害はなかった。 夕刻、イギリス艦隊の対空砲火を視認したイタリア艦隊はそのほうへと向かい、日没後に戦闘が開始された。イタリア艦隊の戦艦が32,000メートルの距離で砲撃を開始した。ヴァイアン少将はブレコンシャーに駆逐艦2隻(デコイ、ハヴォック)をつけて南へ向かわせると、残りの艦艇を率いてイタリア艦隊に向かった。イギリス艦隊の軽巡のうち何隻かは対艦戦闘に不向きな防空巡洋艦だったので、英艦隊はイタリア艦隊に対し圧倒的不利であった。イギリス艦隊は駆逐艦による魚雷攻撃に賭けるしかなく、これを阻止しようとするイタリア駆逐艦の間で小競り合いが繰り広げられた。重巡ゴリツィアは本隊から突出し、砲撃で英駆逐艦1隻(キプリング)を損傷させたという。またイタリア駆逐艦マエストラーレ (Maestrale) も駆逐艦1隻(ニザム)を損傷させている。イタリア艦隊はイギリス駆逐艦が雷撃を行ったと誤認して回避運動を取ると、そのまま砲撃を停止し、18時28分には北へむかった。イアキーノの任務は船団護衛であったためである。ヴァイアン少将もブレコンシャーの護衛を優先し、約40分間の海戦は終了した。 この海戦でイギリス駆逐艦キプリング (HMS Kipling,F91) が軽微な損傷を受け死者1名を出した。
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海戦経過
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8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。一方、ウラジオストク艦隊の方も4時30分に北方に日本艦隊を発見している。ウラジオストク艦隊は南に向けて逃走を図ったが、敵発見の報を受けて南から北上してくる「浪速」を発見し、一戦を交えるのもやむなしと北北西に転針。それを受けて第二戦隊も東南東に変針した。 両艦隊の距離は縮まり、5時23分に距離8400メートルで砲戦が開始された。砲戦では双方に損害が生じたが、5時36分にウラジオストク艦隊が右に変針すると最後尾のリューリクは集中砲火を受けて遅れ艦長エフゲニー・トルーソフ大佐が戦死した。6時、グロモボーイとロシアは16点回頭を行い、リューリクとともに北西に向かった。そのため第二戦隊も北西微西に変針し戦闘を続行した。6時30分、リューリクは舵機損傷により戦列を外れた。以後、グロモボーイとロシアはリューリクを援護しようとし日本第二戦隊との交戦を続けたが、ロシアの損害も大きくなりリューリクも損害がひどく救えない状態になったため7時54分(45分)ごろにグロモボーイとロシアは北へ逃走した。8時8分ごろグロモボーイとロシアは再度第二戦隊に向かい、このときの戦闘でリューリクの放った砲弾が磐手に命中し磐手で死傷者75名を出すということもあったが、イェッセンはリューリク救援を断念して8時22分には再び北へ向かった。このときには第四戦隊の浪速と高千穂が接近して来ていたが、イェッセン少将は第二戦隊を残りの2艦に引きつければ損傷した「リューリク」も防護巡洋艦2隻を破って帰還できるのではないかと期待していた。 上村は第四戦隊にリューリクを任してグロモボーイとロシアを追撃したが、出雲の弾薬が欠乏したとの報告を受けたため10時4分に追撃をやめた。この際、あまりの騒音と喧騒にて、隣の人間とも話もできなかったため、上村に弾薬欠乏を伝えようとした参謀が黒板でもって「ワレ残弾ナシ」と書いて伝えると、それを見た上村は悔しさからか、黒板を参謀から奪い取って床に投げつけ、それを何度も踏みつけたという。ただし、出雲の弾薬は弾庫では少なくなっていても大部分は弾薬通路にあったともいう。第二戦隊の追撃中止により、グロモボーイとロシアは二日後にウラジオストクに帰還している。両艦の人的被害はイェッセンの報告によれば戦死140、負傷319であり、一方第二戦隊の方は戦死45、負傷55であった。 瓜生少将率いる浪速と高千穂はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ=トゥリナーッツァッチ(ロシア語版)大尉は自沈を命じリューリクは沈没した。リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した。
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海戦経過
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「ゴットランド島沖海戦」の記事における「海戦経過」の解説
ロシア第1巡洋艦旅団はアルバトロスおよびアウクスブルクと出会い、7月2日6時32分に砲撃を開始した。6時53分にドイツ側の指揮官Johannes Karpfは巡洋艦と水雷艇だけでも救おうと左に舵を切り、ロシア艦隊の前を横切って南へ向かった。一方、アルバトロスにはスウェーデン領海内へと逃げ込むよう命じた。ロシア側はアウクスブルクは追跡せず、全艦アルバトロスを攻撃した。アルバトロスは西へ向かい、7時45分にゴットランド島のスウェーデン領海内へ入って砲撃を停止した。だが、ロシア側はそれ以降もしばらく砲撃を続行した。アルバトロスには8インチ砲弾6発と6インチ砲弾20発が命中し、また不発弾4発が後に発見された。死者は27名であった。アルバトロスは転覆を避けるため座礁させられた。 砲撃停止後ロシアの巡洋艦は北へ向かったが、そこにKarpfからの通信を受けて駆けつけたローンとリューベックが南方から現れた。9時過ぎにローンが砲撃を開始し、両軍はしばらく交戦したが、ロシア艦隊の動きがドイツ側をより強力な部隊の元へ誘引しているように思えたことやアウクスブルクの所在が不明であったことから9時22分にローンは砲撃を停止して反転し、リューベックもそれに続いた。ロシア側も弾薬不足のため戦闘を続ける意思は無く北東へ向かった。この交戦中バヤーンに21cm砲弾1発が命中した。 9時30分、リューベックが東に煙を発見。リューベックはその方向に向かったがそれはリューリクであった。リューベックとリューリクは戦闘を開始し、15分後にはローンも戦闘加わった。またアウクスブルクもローンと合流した。リューベックは戦闘離脱が命じられ、10時4分に砲撃を停止。Karpfは強力な敵との戦闘を継続するつもりは無く、10時20分に海戦は終了した。リューリクも10時50分に旗艦に呼び戻された。このときの戦闘ではリューリクが多数の命中弾を受けた。 なお、他の艦と合流できなかったノヴィークはイルベ海峡へ向かいそこで停泊した。
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海戦経過
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31日8時20分、オブデュレイトがドイツ駆逐艦を発見、続いてオンズローがアドミラル・ヒッパーを発見した。イギリス駆逐艦は煙幕を張るとともにアドミラル・ヒッパーの前面に展開、また船団各船は出撃前の打ち合わせどおり一斉に発煙フロートを投下した。 10時00分、オンズローにアドミラル・ヒッパーからの8インチ弾が命中し艦橋が損傷、シャーブルック大佐は重傷を負ったが指揮を執り続けた。だが、オンズローはさらに数発の命中弾を受け、シャーブルック大佐は指揮権を僚艦に譲った。残る駆逐艦は偽装雷撃などあらゆる手段を尽くして、アドミラル・ヒッパーが船団に近づくのを阻止したが、オビーディアントが損傷を受けるなど綱渡りの状況が続いた。この間、リュッツォウと駆逐艦3隻は商船を捕捉したようだが、商船は煙幕と吹雪に隠れ、「(誤認の)危険を冒すな」という命令のため追跡は行わなかった。 一方、船団付近ではアケイティーズが直援行動に従事していたが、11時00分、吹雪が弱まった折にアドミラル・ヒッパーの攻撃を受け被弾、大破した。だが、アケイティーズは被弾しながらも煙幕を展開し続け、2時間後に沈没するまでその任務を全うした。 11時45分、シェフィールドとジャマイカが戦場に到着し、攻撃を開始した。アドミラル・ヒッパーに命中弾があり、クメッツ中将は全艦に退避を命じた。フリードリヒ・エックホルトとリヒャルト・バイツェンは2隻のイギリス巡洋艦をアドミラル・ヒッパーおよびリュッツォウと誤認して接近し、フリードリヒ・エックホルトはシェフィールドから多数の6インチ砲弾を浴びて撃沈された。リヒャルト・バイツェンは被害僅少で、ジャマイカの砲撃から辛くも脱した。 その後、アドミラル・ヒッパーとリュッツォウはイギリス巡洋艦2隻を挟み撃ちするチャンスを得たものの、逆にシェフィールドとジャマイカの2隻は果断にも一斉砲撃を加えて撃退した。これを潮にドイツ側は母港へと撤収した。 なお、船団からはぐれた輸送船を捜索するべく本隊から分離していた掃海艇ブランブルも、ドイツ艦隊の攻撃により沈没したと考えられている。
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海戦経過
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12月26日0730時、出撃後北進を続けてきたバイ少将は、イギリス船団の北側に回りこんだと判断し麾下の駆逐艦五隻を南西に向けて散開させた。実際はフレーザー大将の命令によりJW55B船団は更に北西方を航行中であり、この命令は独駆逐艦隊を遊兵化し、シャルンホルストを全くの孤立状態に追い込むこととなった。0830時、ドイツ艦隊出撃の報を聞いて西進してきたフォース1の各艦のレーダーにシャルンホルストの艦影が捉えられた。一方でシャルンホルスト側のレーダーは逆探を警戒して作動させておらず、英巡洋艦隊は0926時、12000mにまで距離を詰めた上で射撃を開始することができた。吹雪の中から砲撃してくる英巡洋艦に対し、シャルンホルストは応射しつつ高速で離脱を図った。このときの砲戦は15分程度で終了したが、シャルンホルストは数発の命中弾を受け、うち一弾がレーダーを使用不能にした。このため以後の戦闘では悪天候下での目視射撃を強いられ、また英艦隊の動きをつかむことが困難となり、単艦で行動していることもあって海戦の主導権はイギリス側に渡っていく。 戦闘開始早々にレーダーを破壊され探索能力に大きなハンディキャップを背負わされたシャルンホルストだが、バイ少将はなお船団攻撃を放棄せず駆逐艦隊を呼び戻しつつ艦を北進させた。一方バーネット中将のフォース1各艦は独戦艦の推定位置とJW55B船団の間に位置しつつ同じく北上、RA55A船団から第36駆逐隊の駆逐艦4隻も合流させ再襲撃に備えた。 1210時シェフィールドのレーダーがシャルンホルストを感知、フォース1は10000mから砲撃を開始した。シャルンホルストは応戦し、ノーフォークに命中弾を与えて主砲塔とレーダーを破壊した。砲戦は二十分程度で終了したが、バイ少将は敵艦隊の中に戦艦がいると判断、作戦中止を決断し報告電を送りつつ南に転舵した。 1423時、バイ少将は駆逐艦隊にも帰港を命じた。ノルウェーへ向け南東へ航行を続けるシャルンホルストであったが、1650時、突如フォース2の戦艦デューク・オブ・ヨークからの砲撃を浴びた。英艦隊はそれより30分前からレーダーでシャルンホルストを捉えており、東進してきたフレーザー大将のフォース2はシャルンホルストの進路上に立ち塞がり、11000mという戦艦の砲撃戦では至近といっていい距離まで目標を引き付けて砲撃を開始したのである。完全な奇襲を受けたシャルンホルストは慌てて回頭するも北への逃げ道は追走してきたフォース1に塞がれており、すぐに再転舵、出しうる最大速度で東へ向けて逃走を図った。このあと約一時間半にわたって逃走劇は続き、両艦隊は砲火を交えながら東へ疾走した。シャルンホルストは2基の副砲を使用不能にされ、デューク・オブ・ヨークもレーダーマストを吹き飛ばされた。 砲戦開始時には11000mだった両艦隊の距離は1820時過ぎには約20000m近くにまで開いていた。デューク・オブ・ヨークに付き従う軽巡ジャマイカは砲撃を中止し、シャルンホルストが逃げ切る可能性も出てきたその時、デューク・オブ・ヨークの14インチ砲弾がシャルンホルストに命中し、第一機関室を破壊した。それまで30ノット以上の高速で逃走していたシャルンホルストは一気に10ノット程度にまで速度が落ちた。ダメージコントロールは迅速で速度は22ノットまで回復したが、この間に距離を詰めてきた英駆逐艦ソーマレスら4隻がシャルンホルストからの砲撃に耐えながら雷撃を敢行、4本が命中した。再度足が止まったシャルンホルストに対してデューク・オブ・ヨーク以下は1901時から射撃を再開し、続けて巡洋艦・駆逐艦からの雷撃を受けた。主砲弾をほとんど撃ち尽くすまで戦ったシャルンホルストだったが、海戦を通じて13発の14インチ砲弾と多数の中小口径弾、そして11本以上の魚雷を浴び、1945時に沈没した。 冬の荒天と北海の低水温のため、シャルンホルストの乗員は1968名のうち36名が救助されたのみである。なお、英駆逐艦スコーピオンは、「シャルンホルストの艦長と司令官が重傷を負って浮いているのを発見したが、救助する間もなく沈んだ」と報告している。海戦後、フレーザー大将はデューク・オブ・ヨークにおいて、将校たちに「紳士諸君、シャルンホルストとの戦いは我々の勝利に終わった。私は君たちの誰かが、戦力が倍以上ちがう相手と戦うことを要求された時、艦をシャルンホルストと同じぐらい立派に指揮することを望む。」と訓示した。
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