艦隊発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:05 UTC 版)
「ドーリットル空襲」の記事における「艦隊発見」の解説
1942年(昭和17年)4月1日、16機のB-25を搭載した空母ホーネットおよび護衛の巡洋艦3隻、駆逐艦3隻はサンフランシスコを出撃した。4月13日、第18任務部隊(ホーネット隊)は、ハルゼー提督直率の第16任務部隊(エンタープライズ、巡洋艦2隻、駆逐艦4隻)と合流し、日本へ向かった。事情を知らないホーネットの乗組員は、B-25を真珠湾に運ぶ任務だと噂していた。エンタープライズ乗組員は、ソ連にB-25を輸送する任務だと噂している。ドーリットル自身は、被弾した場合は搭乗員を脱出させたのち目標に特攻する決意だったという。事前の計画では、4月18日午後に日本本土(本州)沿岸距離500浬地点でB-25隊は発進(各機500ポンド爆弾4個搭載)。指揮官ドーリットル中佐機は夜間の東京に焼夷弾を投下、火災を目標に後続機が爆撃を敢行(ほかに名古屋、大阪、神戸を各1機が空襲)。空襲終了後は全機中国大陸に脱出というものだった。 攻撃予定日直前の4月18日02:10(03:15とも。以下時刻は24時間制で表記。)、エンタープライズはレーダーに2つの光点を発見する。米艦隊はSBDドーントレス爆撃機を索敵のため発進させ、同機は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度4分 東経153度10分 / 北緯36.067度 東経153.167度 / 36.067; 153.167地点で哨戒艇を発見した。06:44、米艦隊は哨戒艇を視認。それは日本軍特設監視艇第二十三日東丸(日東漁業、昭和10年建造、90トン)に発見されたことを意味した。底引網漁船の第二十三日東丸は、軽巡洋艦ナッシュビルの砲撃とF4Fワイルドキャット(エンタープライズ)の機銃掃射を受けた。07:23に撃沈されて乗員14人全員は艇と運命を共にしたが、アメリカ軍側は巡洋艦の主砲砲弾915発(もしくは928発)、12.7mm機銃1200発、SBDドーントレス1機被撃墜(乗員は脱出)と30分を必要とし、第二十三日東丸に無線を使う時間を与えた。06:45に発信された『敵航空母艦2隻、駆逐艦3隻見ゆ』が「第二十三日東丸」最後の無電となった。後日(昭和18年3月15日附)、日本海軍は第二十三日東丸に対し感状を授与した。 アメリカ軍は付近の哨戒艇を一掃する事を決意、エンタープライズから発進したドーントレス(アメリカ軍記録ではF4Fワイルドキャット戦闘機)は周辺の哨戒艇を攻撃する。7:00に粟田丸、10:00に海神丸、11:00に第一岩手丸と第二旭丸、長久丸。11:30に第一福久丸、興和丸、第二十六南進丸。12:00には栄吉丸と粟田丸(2回目)、第三千代丸をそれぞれ攻撃した。以下、被害状況を記載する。 第二旭丸(第二哨戒隊)は11:00に銃撃を受け、戦死1名・戦傷2名を出した。 海神丸は11:00から銃撃を受けたが、被害軽微だった。 福久丸は11:35に艦爆から攻撃を受けたが、被害はなかった。 粟田丸は12:15に爆撃をうけ至近弾となり、軽傷1名を出したが船体の被害は軽微だった。 第三千代丸は12:22より機銃掃射を受け、戦死2名を出した。 第二十六南進丸は11:40から6回におよぶ空襲を受け、戦死1名・戦傷5名を出した。 長久丸は機銃掃射で火災が発生して漂流、翌日03:00に沈没した。生存者は粟田丸に救助された。 「栄吉丸」はSBD1機と交戦して重傷2名を出し、航行不能となる。支援艦赤城丸に曳航されて本土に向かった。 「第一岩手丸」(第三哨戒隊)は米軍機の爆撃と機銃掃射で航行不能になり、翌日17:00に沈没した。船員は潜水艦「伊七四」に救助された。 12:50、第二一南進丸が至近弾で航行不能となり、翌日17:00に軽巡洋艦木曾が砲撃処分した(乗員は木曽に救助)。 長渡丸は12:30頃より空襲を受けたが、この時点では被害軽微だった。だが米機動部隊に遭遇、艇長(前田儀作兵曹長)は敵情を確認するため、あえて機動部隊に向けて突入した。13時には『米空母2隻、米巡洋艦2隻を発見』したと通報する。空襲を受けて損傷。さらに約30分後の13:36、ナッシュビルが長渡丸を6インチ砲102発、5インチ砲63発と1時間を消費して沈めた。長渡丸の乗員9名が戦死し、5名がナッシュビルに救助されている。 アメリカ艦隊による一連の掃討により、特設監視艇隊は大きな被害を受けた。5隻沈没(第二哨戒隊3隻〈第二十三日東丸、長久丸、第二十一南進丸〉、第三哨戒隊2隻〈長渡丸、第一岩手丸〉)、7隻損傷(粟田丸、興和丸、第三千代丸、栄吉丸、第二旭丸、第二十六南進丸、海神丸)、戦死33名、戦傷者23名と記録されている。しかし、漁船改造の特設監視艇隊の報告は米軍機動部隊の奇襲計画を狂わせており、この点で空襲(作戦)に与えた影響は極めて大きかった。 米艦隊は発艦予定海域手前の予想外の遠距離で日本軍に発見されたため、当初の夜間爆撃の予定をとりやめ、予定より7時間早い08:15からB-25爆撃機を発艦させ始めた。最後のB-25が09:16に発艦した後、艦隊は直ちに退避を開始した。なお、B-25の7番機(テッド・W・ローソン中尉)の搭載爆弾には、駐日米海軍武官補佐官ステファン・ユーリカ海軍中尉の所有物で、かつて日本から授与された紀元2600年祝典記念章がドーリットルの手で装着されていた。ハルゼー提督(エンタープライズ乗艦)は「諸君、利息をつけて、この勲章を返してやれ、成功を祈る」と伝言している。
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