日清戦争・黄海海戦とは? わかりやすく解説

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日清戦争・黄海海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 10:04 UTC 版)

西京丸」の記事における「日清戦争・黄海海戦」の解説

1894年7月25日豊島沖海戦で、事実上日清戦争勃発西京丸開戦後ただちに日本海軍徴用され、巡洋艦代用改造武装施され9月2日佐世保出撃して、翌3日長直路の根拠地到着した9月6日軍令部長樺山資紀幕僚5名を従えて西京丸乗艦西京丸戦況視察目的以って連合艦隊付属となり、艦隊とともに9月16日出撃した。 翌17日昼ごろ、連合艦隊黄海海上海洋島近海清国北洋艦隊発見黄海海戦である。艦隊発見同時に連合艦隊司令長官伊東祐亨は、西京丸赤城に対して戦闘避けるよう信号出した。しかし、信号に従って戦闘避けたつもりだったのが、戦闘自体激しくなるにつれ、いつしか敵前孤立の形となった。この時までに上甲板一発被弾し船室貫通したが、幸い戦死者は出なかった。最初危機去って間もなく今度北洋艦隊旗艦定遠鎮遠、来遠の3隻が西京丸に対して攻撃仕掛けた定遠鎮遠のうちのどちらか発射した30.5センチ砲弾命中しサロン機関室、スチームパイプを破壊した。スチームパイプの破壊一時操舵が困難となったが、人力装置切り替えて第二危機乗り切ったほどなく水線付近に被弾し浸水始まったが、この浸水セメント被弾箇所固めて食い止めた定遠以下の攻撃凌いだのもつかの間前方から新手の敵である平遠と広丙が水雷艇伴って襲ってきた。西京丸備砲水雷艇追い払うと、平遠と広丙に対して攻撃。両艦は大した反撃もなく去り、続く敵、水雷艇福龍西京丸前に立ちふさがった福龍西京丸に対して500メートルの距離で最初雷撃敢行。しかし、これは西京丸左舷をかすめ去った西京丸備砲反撃試みたが、運悪く故障発生し反撃できなかった。福龍西京丸反撃できない好機逃さず二度目攻撃でわずか40メートルにまで接近し魚雷発射。しかし、距離が近すぎたのか魚雷西京丸の下を通過して反対側に去っていった。西京丸被弾12発を数えた。しかし、戦死者はわずか1名であった西京丸は「舵故障」の信号掲げて戦場離脱した黄海海戦後の西京丸修理の後、引き続き徴用船として活動1895年5月8日以降台湾平定にも参加した最中10月28日台湾征討近衛師団長北白川宮能久親王台南にて薨去西京丸能久親王遺体安平から日本運搬したこの際表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。戦争終結後西京丸徴用解除された。

※この「日清戦争・黄海海戦」の解説は、「西京丸」の解説の一部です。
「日清戦争・黄海海戦」を含む「西京丸」の記事については、「西京丸」の概要を参照ください。

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