日清戦争・黄海海戦
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1894年7月25日の豊島沖海戦で、事実上日清戦争が勃発。西京丸は開戦後ただちに日本海軍に徴用され、巡洋艦代用に改造。武装が施され、9月2日に佐世保を出撃して、翌3日に長直路の根拠地に到着した。9月6日、軍令部長樺山資紀が幕僚5名を従えて西京丸に乗艦。西京丸は戦況視察の目的を以って連合艦隊付属となり、艦隊とともに9月16日に出撃した。 翌17日昼ごろ、連合艦隊は黄海海上、海洋島近海で清国北洋艦隊を発見。黄海海戦である。艦隊発見と同時に、連合艦隊司令長官伊東祐亨は、西京丸と赤城に対して戦闘を避けるよう信号を出した。しかし、信号に従って戦闘を避けたつもりだったのが、戦闘自体が激しくなるにつれ、いつしか敵前孤立の形となった。この時までに上甲板に一発被弾し船室を貫通したが、幸い戦死者は出なかった。最初の危機が去って間もなく、今度は北洋艦隊旗艦定遠と鎮遠、来遠の3隻が西京丸に対して攻撃を仕掛けた。定遠か鎮遠のうちのどちらかが発射した30.5センチ砲弾が命中し、サロンと機関室、スチームパイプを破壊した。スチームパイプの破壊で一時操舵が困難となったが、人力装置に切り替えて第二の危機を乗り切った。ほどなく水線付近にも被弾し浸水が始まったが、この浸水はセメントで被弾箇所を固めて食い止めた。 定遠以下の攻撃を凌いだのもつかの間、前方から新手の敵である平遠と広丙が水雷艇を伴って襲ってきた。西京丸は備砲で水雷艇を追い払うと、平遠と広丙に対して攻撃。両艦は大した反撃もなく去り、続く敵、水雷艇福龍が西京丸の前に立ちふさがった。福龍は西京丸に対して500メートルの距離で最初の雷撃を敢行。しかし、これは西京丸の左舷をかすめ去った。西京丸は備砲で反撃を試みたが、運悪く故障が発生し反撃できなかった。福龍は西京丸が反撃できない好機を逃さず、二度目の攻撃でわずか40メートルにまで接近し、魚雷を発射。しかし、距離が近すぎたのか魚雷は西京丸の下を通過して反対側に去っていった。西京丸は被弾12発を数えた。しかし、戦死者はわずか1名であった。西京丸は「舵故障」の信号を掲げて戦場を離脱した。 黄海海戦後の西京丸は修理の後、引き続き徴用船として活動。1895年5月8日以降の台湾平定にも参加した。最中の10月28日に台湾征討近衛師団長北白川宮能久親王が台南にて薨去。西京丸は能久親王の遺体を安平から日本に運搬した。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。戦争終結後、西京丸は徴用を解除された。
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