徴用船として
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1941年12月に太平洋戦争が勃発すると、ただちに日本陸軍に徴用され、軍隊輸送船として改装。陸軍船番号866番が付与された。1942年(昭和17年)初頭の蘭印作戦で第2師団の一部を乗せてカムラン湾を出撃。第16軍上陸船団の第3船隊第1分隊(6隻)に属して、2月28日にジャワ島バンタム湾(英語版)への上陸戦を成功させた。同じ分隊に属した輸送船「龍野丸」(日本郵船:7296総トン)と病院船「蓬莱丸」(大阪商船:9205総トン)は、バタビア沖海戦で日本艦隊が発射した魚雷が命中して大破したが、本船は被害を免れた。1942年12月に三井物産船舶部が三井船舶として分社したことから、船主が三井船舶へ変わる。 野間(2002年)によれば、1942年12月26日にラバウルから日本本土へ向かう途中、ニューアイルランド島カビエン沖で敵潜水艦による魚雷攻撃を受けて航行不能の損害を被った。他方、『アメリカ海軍公式年表』によると、1943年(昭和18年)1月2日にニューアイルランド島沖南緯03度30分 東経151度30分 / 南緯3.500度 東経151.500度 / -3.500; 151.500でアメリカ潜水艦「スピアフィッシュ」の攻撃を受けて損傷となっている。 大戦後半に入っても、「赤城山丸」は陸軍徴用船として軍事輸送に使われた。時期不明であるが、自衛武装として高射砲・野砲・機関銃2門・爆雷4発を装備している。1943年11月には、第776船団(輸送船11隻・護衛艦1隻)に加入して高雄港からマニラへ行き、そこからH5(甲)船団(輸送船7隻・護衛艦2隻)に加入してハルマヘラ島までの輸送を行った。1944年(昭和19年)1月23日から2月22日には、ビマ行きの第46師団の一部(人員1218人・物資3650立方メートル)を輸送。同年5月から6月には、マニラ・ハルマヘラ間を2往復した。9月には補充人員輸送の任務で門司発の節船団(輸送船4隻・護衛艦2隻)に加入し、途中で貨物船「江田島丸」(日本郵船:6932総トン)と「暁空丸」(拿捕船:6854総トン)をアメリカ潜水艦の攻撃で失いながら、「和浦丸」とともに無事に目的地の上海へ到着した。 「赤城山丸」の最後の任務となったのは、アメリカ軍が上陸して激戦中のレイテ島への増援部隊輸送であった。1944年11月3日、「赤城山丸」は、ミ船団の一つであるミ25船団(輸送船22隻・護衛艦5隻)に加入して門司を出港、途中で船団主力と分離して、11月30日にマニラへ入港した。そして、レイテ島へ第68旅団を強行輸送する第8次多号作戦に投入されることとなり、12月5日、「赤城山丸」は他の輸送艦船4隻とともに護衛されてマニラを出撃した。レイテ島オルモックを目的地としたが、カモテス海を航行中の12月7日朝にオルモック方面へ敵上陸との情報を受けて、サンイシドロ(英語版)へ目的地を変更。船体を犠牲にしても物資を揚陸するため、命令により海岸へ自ら乗り上げて擱座したが、アメリカ陸軍航空軍の戦闘爆撃機と海兵隊航空団のF4Uの空襲を受けて炎上し、完全喪失となった。船員58人および船砲隊69人は全員戦死した。
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徴用船として
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1941年(昭和16年)10月15日、「平洋丸」は海軍に徴用され、一般徴用船(雑用船)となる。「平洋丸」が開戦を前に徴用されたのは、貨物の積載能力が大型貨物船並みであるということと、船艙のスペースに余裕があったため居住スペースの拡大が可能であったためである。 「平洋丸」の最初の任務は舞鶴第二特別陸戦隊の輸送であった。「平洋丸」は11月21日に舞鶴を出港し、11月26日にサイパン、12月3日にマーシャル諸島のルオットに部隊を揚陸し、その任務を完了した。日米開戦は日本に戻る途中であり、開戦後の「平洋丸」は横須賀を拠点にサイパン、トラック、クェゼリン、ウォッゼなどの内南洋を中心に輸送任務を行い、時にはウェーク島、カビエン、ラバウル、バナバ島などの外南洋への輸送任務も行った。
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