海軍により徴用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 07:40 UTC 版)
太平洋戦争中の竣工となったため、主に海軍省の一般徴用船として人員および軍需物資輸送に使用された。『大阪商船株式会社八十年史』によれば竣工と同時に日本海軍の使用船となったが、野間(2002年)によれば竣工から半年間の行動は詳細不明である。 復員庁第二復員局作成の『海軍指定船名簿』によると、1943年(昭和18年)4月24日付で一般商船のまま乗員だけ軍属扱いとする海軍指定船に指定された。同年6月末までは、新潟港・小樽港・樺太(真岡港・恵須取港)の間で輸送航海を繰り返している。その後、7月7日に室蘭港を出て、神戸港経由で東京湾へ回航された。 海軍省兵備局作成の『徴傭船舶名簿』によると、1943年(昭和18年)7月16日付で回航先の横須賀港において海軍省の一般徴用船となった。徴用後最初の航海では、横須賀から門司・奄美大島・高雄港・廈門・香港などを経て海口まで南下した。復路は基隆や佐世保港を経て、9月10日に大阪へ到着した。9月11-27日に大阪鉄工所で修理を受けた後、28日に大阪を出て呉港・旅順・大連港・室蘭を経て10月15日に大湊港へ戻った。 以降は沈没時まで、大湊を拠点として千島列島北部への輸送任務に従事した。1943年10月24日に大湊を出ると、幌筵島の武蔵湾と擂鉢湾に碇泊、11月26日に小樽へ戻った。12月上旬に青森港まで往復して大湊に戻った後、大阪に回航して12月23日から翌年2月2日まで大阪鉄工所で修理を受けている。門司から朝鮮半島の汀羅を経て大湊に戻った後、5月下旬までに釧路港にも寄港しつつ占守島片岡・幌筵島柏原方面への輸送を3往復実施。6月以降も、占守島や幌筵島への輸送にたびたび赴いた。
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