最初の航海とは? わかりやすく解説

最初の航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 08:44 UTC 版)

バジル・リングローズ」の記事における「最初の航海」の解説

リングローズがなぜバッカニア一味加わったのかは不明だが、1679年3月から海賊行為についての記録をつけ始め、プエルト・ベリョを掠奪したのちにダリエン地峡横断しパナマの町を襲撃した一味にはバーソロミュー・シャープ、ジョン・コクソン(英語版)、リチャード・ソーキンズ(英語版)、ジョン・クック (海賊)(英語版)、ライオネル・ウェーファー(英語版)、ウィリアム・ダンピアらがいた。語学精通していたリングローズは一味の中で通訳として重宝され尊重されていた。また、ダンピア彼のことを「私の聡明な友人リングローズ氏」と記していることから、親しくしていたと思われる1681年4月17日当時トリニティ号の船長の座にあったシャープに対して不信任投票が行われた。一味分裂しダンピアクック、ウェーファーらはシャープ反旗を翻して船を去り、リングローズはシャープ支持して船に残った。およそ50人が離反したのち、一味トリニティ号を改修していくつかの船を拿捕掠奪したエクアドルプラタ島に寄港したさい、リングローズは舵手のジェームズ・チャッペルと決闘したが、どのような結果になったのかは不明である。一味ホーン岬回航して翌年1月アンティグア到着した当地一味解散することになり、リングローズはロバート・ポーティーン船長のリスボン・マーチャント号に乗ってイギリスに帰国した。ダートマス到着したのは3月26日のことであった

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最初の航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 12:06 UTC 版)

トマス・テュー」の記事における「最初の航海」の解説

1692年バミューダ植民地総督リッチャーガンビア川沿岸ゴリーという土地にあるフランス商館占領するため、2隻の私掠船用意しそれぞれテューとジョージ・デュー船長指揮官任命した総督から船と委任状受け取った2人当地王立アフリカ会社支援するためバミューダ出港したが、途中で激しい嵐に遭いデュー船長の船のマスト折れ、2隻は離れ離れになってしまった。デュー船長修理のために港に引き返したが、僚船別れたテューはこれを好機考え海賊行為を働くべく乗組員たちを甲板集めて演説始めた雇われ仕事よりも海賊行為のほうが儲かると説くテューに感心した乗組員たちは「金の鎖手に入れるにしろ、義足をつけることになるにしろ、船長付いて行くぜ」と答えた。 テューは船を喜望峰へ向け、そこからバブ・エル・マンデブ海峡通過して紅海入った。そこで荷を満載してインドからアラビアに向かう途中大型船遭遇し、これを襲った大型船には300人もの兵士乗船していたが、兵たちは積荷を守ることより身を守ることに専念してしまった。テューは1人死者を出すこともなく容易に襲撃成功させ、金銀宝石類スパイス火薬類などを船に積めるだけ積み込んだ。これらの戦利品分け前1人あたり3000ポンドにもなったという。さらに拿捕した大型船乗組員から、ほかに5隻の船が続航しているということ聞き及び、テューはそれらの船も獲物にしようと提案した。しかし操舵手ほか乗組員多くがこれに反対したためマダガスカルに向かうことになる。 1694年4月、テューはニューポート到着したニューヨーク植民地ベンジャミン・フレッチャー総督英語版)は、テューやその家族親しくなった。

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最初の航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 05:52 UTC 版)

ビーグル (帆船)」の記事における「最初の航海」の解説

1825年9月ビーグルウーリッジドック入り5913ポンドをかけて新たな任務のための修理改装が行われた。砲は10門から6門に減らされ操船性の向上のため後マスト追加された。そのため、ブリッグからバークになった1826年5月22日ビーグルはプリングル・ストークス船長指揮の下で最初の航海に出発した。この航海では、フリップ・パーカ・キングの指揮の下、ビーグルより大きな船アドヴェンチャー380トンと共にビーグルパタゴニアティエラ・デル・フエゴ諸島水路調査行ったフエゴ諸島荒涼とした海域でのより困難な調査直面して、プリングル・ストークスは深いうつ状態陥ったマゼラン海峡のポート・ファミンで彼は14日間部屋閉じこもってしまった。そして、12日間の精神錯乱状態の後、1828年8月2日自分自身撃ち死亡した。パーカ・キングがビーグル号副長W・G・スカイリングと共にストークス後を引き継いだ。彼らはリオデジャネイロ向けて出港し、そこで1928年12月15日ガンジス座乗する南アメリカ方面司令官ロバート・オットウェイ少将彼の部下ロバート・フィッツロイ海尉一時的にビーグル号船長指名した23歳貴族フィッツロイ有能な指揮官であり、また念入りな調査行ったフエゴ島民一団が船のボート盗んだ時にはフィッツロイは彼らの家族人質として捕らえた結局彼は二人の男、少年と少女一人ずつ捕らえその4人はイギリスへ連れて行かれた。1830年10月14日ビーグルポーツマス帰還した

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