最初の老中就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 07:52 UTC 版)
文化9年(1812年)7月11日、播磨国姫路藩主・酒井雅楽頭忠実の次男として江戸で誕生。文政12年(1829年)9月、同じ譜代大名で老中歴任者の多い上田藩(藤井松平家)5代藩主・松平忠学の養子となり、文政13年(1830年)4月20日に忠学が隠居したのを受けて家督を継いだ。翌年領内の農村部を巡回し、冷涼な上田は稲作に不安がある一方、桑樹栽培の適地であると見抜き、養蚕奨励の訓示を出し、生産量をあげるとともに、その品質を高めることを目指した。天保3年(1832年)10月、上田産物改会所を設置し、藩として、絹糸や織物の品質検査を行って品質向上させるとともに、そこに課税して藩財政を好転させようとした。 天保の大飢饉が起こり、家臣を他領に派遣して懸命に米殻を買い入れ、領民救済最優先の対応を行ったが、上田松平家は16万両もの負債を膨らませることになった。そのほか、さつまいもの栽培を奨励し、藁餅、蕨粉の製法を普及させるなどした。天保7年(1836年)10月29日には、家臣一同を召集し、3カ年の面扶持で耐え忍ぶよう申しつけだ。大飢饉の経験から、上田藩は養蚕業と絹織物産業の振興に邁進し、蚕の品種改良が積み重ねられた。 天保5年(1834年)4月、将軍と大名の取次役である奏者番に任じられた。天保9年(1838年)、奏者番と兼任で寺社奉行に任命された。老中・水野忠邦の蘭学者弾圧を批判し続けたため、天保14年(1843年)2月22日、御約御免となった。幸運なことに、天保14年閏9月に水野忠邦も失脚したため、弘化元年(1844年)12月28日、寺社奉行と奏者番に再任された。 4年間の大坂城代を経て嘉永元年(1848年)10月、老中に抜擢される。嘉永5年(1852年)1月26日、上田で大砲を鋳造する許可を得て、八木剛助の指導により、常田村で四斤半施条砲が鋳造された。嘉永7年の2度目のペリー来航の際、四門が江戸の藩邸に移送され、実弾演習が行われた。 嘉永6年(1853年)6月、浦賀へ来航して国書を交付してきたアメリカ東インド艦隊提督マシュー・ペリーからの開国要求に際し、老中首座・阿部正弘は諸大名や朝廷からも意見を求め、また前水戸藩主・徳川斉昭を海防参与に任じたものの、忠優はこれらに最も反対した。外交問題も含め朝廷から諸事一任されている幕府がわざわざ朝廷諸大名に意見を求めるのは、幕府の当事者能力の喪失を内外に印象付けるだけで愚策であるというのである。 事実、幕末の政局は朝廷公卿や外様大藩からの幕政への容喙によって混乱を招いており、忠優の危惧も頷けるところである。更に、譜代大名重鎮の一つである酒井雅楽頭家の出身者らしく、元々御三家といえども幕政に参与する資格など無く、ましてや狷介な性格の斉昭ではいたずらに幕政に波風(暴風)を立てるだけだとして警戒し、斉昭の海防参与就任にも反対した。 また、攘夷論を唱える徳川斉昭の主張は一見威勢はいいが、当時の幕府がアメリカと一戦交えても勝利できるはずはなく、下手をすると国土の一部を割譲されるだけである、それならばいっそ国書を受け取り、早めに開国すべきであるというのが、幕府内で主流派であり、自身も属していた穏便・開国派の考えであった。そこで、さらに積極的な交易論を唱える忠優は、交易通信の承認に傾けるほど幕閣の大勢を主導していた。 しかし海防水戸学の思想に固まる斉昭と、積極開国派の忠優では見解の一致などあろうはずがなく、両者の対立は激しさを増す。 交易を絶対に認めない斉昭から、強い抗議の意味合いで海防参与の辞職を出願されたため、老中首座の阿部正弘は事態の収拾を図ろうと斉昭に譲歩し、通商通信を許さないという決定を下してしまう。さらに安政2年(1855年)6月30日、忠優と彼に歩調を合わせる松平乗全の両名の老中免職まで要求する斉昭に対し、やむなく屈した正弘によって、8月4日に乗全と共に忠優は老中職を解かれて、帝鑑間詰に戻された。
※この「最初の老中就任」の解説は、「松平忠固」の解説の一部です。
「最初の老中就任」を含む「松平忠固」の記事については、「松平忠固」の概要を参照ください。
- 最初の老中就任のページへのリンク