最初の統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 00:40 UTC 版)
「ペーテル (ハンガリー王)」の記事における「最初の統治」の解説
1038年8月15日にイシュトヴァーン1世が死去し、ペーテルは何の反対もないまま王位についた。彼は伯父の政策を引き継ぎ、異教の身なりを固く禁じた。異教徒に対して厳しい法令を発し、また王家の金庫に対する支払うべき税を増加させた。 ペーテルはハンガリー貴族を遠ざけ、ドイツ人・イタリア人からなる自分の支持者を臣下に取り立てた。 神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世に対抗してボヘミア公ブレチスラフ1世(英語版)と同盟し、国境を接するドイツ領へ幾度も遠征を行った。 1041年、ペーテルは伯父の未亡人ギーゼラの所領を没収し、前王妃に代わって仲裁しようとした2人の司教らを逮捕した。これらの行いは、彼に対抗する宮廷内の違う派閥の者らが集まって陰謀を企む結果となった。陰謀で、王の重臣の一人ブドーが殺された。その後すぐ、ペーテルは義弟であるオーストリア辺境伯アーダルベルトの宮廷へ逃げることを余儀なくされた。彼の逃亡後、陰謀の首謀者らはイシュトヴァーン1世の義弟シャームエル(イシュトヴァーンの妹ギーゼラを妻とする)を王に据えた。
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