最初の結婚生活
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「フランセス・ブランドン」の記事における「最初の結婚生活」の解説
1530年、父はフランセスに国内最有力の諸侯ノーフォーク公爵の嗣子サリー伯との縁談を持ち込んだ。ところがサリー伯は、フランセス側の提示した持参金の額に満足できないという侮辱的な理由で、彼女との縁談を破棄した。2年後の1532年、フランセスは第3代ドーセット侯爵ヘンリー・グレイと婚約した。ドーセット侯はアランデル伯爵(英語版)の娘キャサリン・フィッツアラン(Lady Katherine FitzAlan)と婚約中だったが、王の姪であるフランセスの方がより良い条件を備えていた。もっとも、ドーセット侯とキャサリンは長く許婚同士だったため、婚約破談の際には訴訟にまで発展した。 ドーセット侯は1530年に父を亡くした際にまだ13歳だったため、フランセスの父チャールズは、将来の娘婿の後見人となっていた。1533年3月、フランセスとドーセット侯はロンドン・サザーク (Southwark) にあるチャールズの邸宅サフォーク・プレイス (Suffolk Place) において結婚式を挙げた。ほぼ同じ頃、フランセスの同母妹エリナーがカンバーランド伯爵(英語版)と婚約している。 フランセスの結婚式は、母メアリー王女にとって公の場に出る最後の機会となった。すでに重い病に罹っていたメアリーは、式後すぐにウェストホープの本邸に帰って行った。15歳のフランセスと夫ヘンリーは、グレイ家の本邸のあるレスターシャーのブラッドゲート(英語版)へ向かった。5月28日、ヘンリー・グレイはアン・ブーリンの王妃戴冠式に出席した。その戴冠式の1か月後、メアリー王女はウェストホープで死去した。メアリーの埋葬式は7月21日に行われ、フランセスは葬列の先頭に立った。母の死からわずか3か月後、父サフォーク公は被後見人のキャサリン・ウィロビーを4度目の妻にした。新しい継母はフランセスよりも2歳年下だった。 フランセスとヘンリー・グレイは宮廷と領地を行き来しながら結婚生活を送った。宮廷生活は出費がかさむものの、若い侯爵夫妻は社交や祝祭、気晴らしの外出などを好んだ。フランセスがどの程度、夫に対する影響力を有していたのかは、不明である。ある同時代人は彼女を、夫よりも「高貴な生まれの婦人」であり、「その激しい気性から言っても、その気になれば容易に夫を自分に従わせられるだろう」としている。常に借金まみれだったにもかかわらず、グレイ夫妻は持ち前の気前の良さともてなしぶりから、人々に非常に好かれていた。 グレイ夫妻の最初の2人の子供(男児と女児)は、いずれも乳児の時に死んだ。1537年に生まれた夫妻の(実質的な)長女は、時の王妃ジェーン・シーモアの名前をもらい、ジェーンと名付けられた。1540年には次女キャサリン(英語版)が、1545年には三女で末娘のメアリー(英語版)が生まれた。末娘の生まれた年、父チャールズ・ブランドンが亡くなり、その称号と財産はキャサリン・ウィロビーの産んだフランセスの異母弟が相続した。 フランセスと夫ヘンリー・グレイとの関係が、結婚生活の最後の時期まで良好なものだったとは、断言できない。ヘンリーがはっきりプロテスタント陣営に与したのに対し、フランセスはカトリック信徒の従姉メアリー女王の友人であり、メアリー女王と親戚付き合いを続けた。一部の歴史家たちは、フランセスが1545年に28歳で三女を出産した後、二度と妊娠しなかったことが、ドーセット侯夫妻が疎遠になったことを示唆していると主張する。他方、1552年にフランセスが重病に罹り一時危篤に陥った時、ヘンリー・グレイは妻の元に急いで駆けつけている。
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