ほん‐てい【本邸】
読み方:ほんてい
本宅。
本邸(京都時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:00 UTC 版)
有栖川宮の本邸宅の場所は、京都・東京時代を通じ、火災焼失等による仮住まいの期間を除いても複数回の移転があった。 初代好仁親王の時代からほぼ江戸時代を通し、京都御所の北東部分にあたる猿ヶ辻と呼ばれた場所に屋敷が存在した。この地は幟仁親王時代の慶応元年(1865年)に、御所の拡張用地として召し上げられた。翌慶応2年(1866年)までに、跡地は京都御所の敷地に編入されるか道路に転用されたため、建物等の遺構は現存しない。 代わりに下賜されたのが、現在の京都御苑内で「有栖川宮邸跡」の碑が建つ、御所建礼門前の凝華洞(御花畑)跡であった(この地は直前まで松平容保が宿舎として利用していた)。この場所に明治2年(1869年)に新御殿が落成したが、わずか3年後の明治5年(1872年)、すでに奠都によって東京に移っていた明治天皇からの呼び寄せにより幟仁親王も東京へ転住することになったため、宮邸の土地家屋は京都府を経て司法省に引き継がれ、裁判所として使用された。現在上京区烏丸通下立売角に建つ平安女学院大学の学舎の一つ「有栖館」は、この建物の一部を移築したものと伝えられている。
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本邸(東京時代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:00 UTC 版)
幟仁親王より先に東京へ転居していた熾仁親王は、旧高遠藩屋敷(神田小川町、現在の靖国通り「駿河台下」交差点付近)、旧島原藩屋敷(数寄屋橋御門内、現在の日比谷シャンテ付近)などを転々としたあと、明治4年(1871年)に芝浜崎町の旧紀州藩別邸(旧芝離宮恩賜庭園)を本邸とした。しかしここは明治8年(1873年)に宮内省に買い上げられたため、維新後は副島種臣が住んでいた霞が関一丁目二番地の旧三田藩屋敷跡(現在の国会議事堂敷地南部から国会前庭南地区にかけての一帯)1万1千93坪を買上げ, 同年8月28日に移転。 しかしこの旧副島邸、既存建物が老朽化していたため, 明治13年より殿邸の改築が企てられる。工部省営繕局の担当で工事が実施された。そのうちの洋館はジョサイア・コンドル設計の2階建てで建築され、本邸として使用された。この洋館は明治14年(1881年)から17年(1884年)7月に竣工までの3年におよぶ工期と約47万円(当時)の費用をかけて建てられ、外国使節の接待施設としての機能も併せ持つ非常に豪華な建物であり、「コンドル博士遺作集」では「荘重なる復興式となし, 内部諸室の意匠も都て此方針に拠れり。本建物は蓋し皇族の御殿を純洋風に造りたる嚆矢にして, 永く後の模範となりたり」と伝えている。邸宅には前述のコンドル設計の本館(洋館)のほか、木造の日本館があって職員の事務棟などとして使用されていた。 また17年4月より宮内省内匠課の担当で着手した庭園工事は, 翌18年6月に完成し, 有栖川宮邸としての体裁を完全にととのえることになる。 威仁親王に代替わりした後の明治29年(1896年)には、宮内省によって霞関離宮として買い上げられさらに31年には建物など一切が買上げられたが、威仁親王の希望により明治36年(1903年)まで継続使用された。明治37年2月8日に宮家から引渡しがあり, 2月13日付で霞関離宮となったもので,大正10年より同12年まで東宮仮御所となる。また日本館はのちに関東大震災で庁舎が被災した帝室林野局が大正13年より昭和12年まで臨時に使用したが、のちに解体されて一部が静岡県掛川市の大日本報徳社に移築された。 明治36年12月、隠居した幟仁親王が薨去まで住んでいた、麹町区三年町5番地の隠邸跡(現在の永田町、内閣府庁舎)に新本邸が完成し、同月17日に移転。有栖川宮の最後の本邸宅となった。 霞関離宮本館と三年町本邸(絶家後は高松宮邸を経て外務大臣官舎)の両建物は有栖川宮の絶家後も存在し、関東大震災にも耐えたが、ともに昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で被弾炎上し、終戦後に撤去された。
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本邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)
本邸は東京市渋谷区上智町(現・東京都渋谷区広尾一丁目)にあった。土地は諭吉が購入し、房が相続したもの。高台にあり、付近一帯は「福澤山」と呼ばれた。
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本邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/20 07:59 UTC 版)
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本邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:22 UTC 版)
本邸は、旧所有者の寄附により築上町所有となり、2002年(平成14)に敷地内の建造物が12件、国の登録有形文化財に登録、2017年(平成29年)2月9日付で敷地内庭園が、国指定名勝「旧藏内氏庭園」に指定された。 敷地面積は、7.135㎡、延床面積が1.250㎡あり、2013年(平成23)4月から「旧蔵内邸」として有料で一般公開されている。
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