新御殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 19:44 UTC 版)
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 新御殿一の間の桂棚 新御殿御寝の間の剣璽の棚 新御殿化粧の間の裏桂棚 新御殿は南北棟の入母屋造、杮葺の建物で、規模は7間四方、実寸は一辺約14メートルである。内部は9室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。柱は中書院同様、杉の面皮柱である。一の間は9畳大で、うち南西の3畳分を框一段分高くなった「上段」とし、ここに著名な桂棚と付書院がある。桂棚は修学院離宮の「霞棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」とともに「天下三名棚」に数えられるもので、黒檀、紫檀、伽羅、唐桐、唐桑など、輸入品を主とした18種の銘木を組み合わせて作られている。天袋に李白と林和靖図、地袋には円窓内の山水図を描き、狩野探幽の筆とされている。付書院は室外に張り出さない形式のもので、唐桑材の文机とその上の櫛形の窓からなる。櫛形窓の枠は黒柿、その上部の羽目板と袖壁はトチ材である。櫛形窓には明障子を立てる。文机の下は地袋ではなく吹き放しとし、奥に板戸を嵌めるが、この板戸は取り外し可能で、ここから風を入れることができる。二の間は9畳大で、南西の1畳分を床(とこ)とする。床脇の壁には木瓜形の窓を開ける。一の間・二の間境の欄間は幾何学的なデザインで「月の字崩し」ともいわれる。御寝の間は新御殿の中央に位置する10畳大の部屋で、周囲の襖を閉め切れば外部の光が入らなくなる。北東の1畳分のみ畳を一段高くし、その上部、内法やや下に「御剣棚」という三角形平面の袋棚を設けている。棚の引戸には「捩り張り」と称する紗を張っている。この棚は御剣、すなわち天皇の守り刀を納める場所とされているが、後水尾院が行幸したときは譲位後だったため、実際には御剣は所持していなかった。御化粧の間、御衣紋の間、御手水の間は天皇の着替えや整髪などに用いるための部屋である。御化粧の間には、前述の桂棚の裏にあたる位置に直線的デザインの棚があり、「裏桂棚」と称されている。入側縁は一の間・二の間寄りを畳敷、庭寄りを杉板敷とし、これらの境には欅材の框を入れる。 新御殿や楽器の間では、簡素な中にも釘隠、襖の引手、板戸の引手などの細部に独創的なデザインが施されている。その例としては、水仙形の釘隠(新御殿長押)、「月」の字形の引手(新御殿襖)、春夏秋冬の花を盛った4種の手桶形引手(新御殿板戸)、折松葉形の引手(楽器の間襖)、市女笠形の引手(楽器の間板戸)などがある。庭園の茶屋にも月波楼の杼(ひ、織機の部品)形の引手、笑意軒の矢形と櫂形の引手などがある。なお、これらの飾金具は、昭和修理時に復元製作されたものに取り替えられており、オリジナルは別途保存されている。 新御殿の建立時期は寛文2年(1662年)頃とするのが通説で、翌寛文3年(1663年)の後水尾院の桂別業御幸に備え、御幸御殿として建立されたとするのが古くからの解釈である。ただし、御幸御殿にしては、御化粧の間、御衣紋の間、御手水の間等の内向きの施設が充実しすぎていること、当時法体であった後水尾院(慶安4年・1651年落飾)にこれらの設備が必要であったか疑問視されることなどが指摘されている。このため、新御殿は、むしろ八条宮智仁親王(寛文2年没)ないし3代目の穏仁親王の御座所として建立されたのではないかとの説もある。昭和の修理時に、襖の下張り文書から万治3年(1660年)の年紀が見出され、この年が建立時期の上限とみられる。
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