建物と庭園
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もともとこの土地は、明治から大正期の実業家(京都電燈などの創業者)で政治家としても活躍した田中源太郎(1853年 - 1922年)が所有していた。田中が当地に構えた庵に三条実美(明治政府の太政大臣)が「喜鶴亭」という命名をおこなった。 田中の死後、この土地は京都電燈重役の個人別荘となった。現在みられる建物と庭園は、大正末期から昭和にかけて造営されたものである。数寄屋造りの建物は中村外二が手掛け、自然を借景とした庭園は佐野藤右衛門一統によるものとされる。 京都電燈は、現在の叡山電鉄叡山本線や叡山ケーブルを開設し、これらの鉄道・軌道事業は1942年設立の京福電気鉄道に引き継がれた。別荘も京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業していた。 料理旅館が廃業することとなり、光明寺が買収。本堂を設置し、光明寺より寺宝を移して、2005年に寺院に改められた。「喜鶴亭」の名は茶室に受け継がれている。
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建物と庭園
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桂離宮の建造物は書院群と池の周囲に散在する御茶屋群で構成されている。古書院、中書院、新御殿はいずれも入母屋造、杮板という薄い板を葺足にして竹針で止める柿葺(こけらぶき)の屋根で、書院造を基調としているが、数寄屋風の要素も見られる。回遊式庭園には、桂川の水を引いた池を中心に、茶屋、築山、州浜、橋、石灯篭などを配している。茶屋は松琴亭(しょうきんてい)、賞花亭(しょうかてい)、笑意軒(しょういけん)、月波楼(げっぱろう)の4棟があり、他に持仏堂の園林堂(おんりんどう)がある。また池では舟遊びも楽しむことができ、それぞれの茶屋に船着場が設けられている。
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建物と庭園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:32 UTC 版)
名倉医院の建造物(長屋門、旧診療所、茶室、旧母屋、蔵)は建築された年代が不明確で、由来についてはわからない点も多いが、一説では1770年(明和7年)頃ともされる。旧診療所については、江戸時代末期に大改修を行っている。その契機となったのは、徳川幕府第12代将軍徳川家慶の「休息所」を内示されたことであった。その内示は「千住御鷹野御成の御休息所申し付くるものなり」というもので、名倉家の当主だった市蔵尚壽が多大な苦心をして家屋を改修し、将軍の来訪の準備をした。徳川家が鷹狩りを千住で行ったのは1848年(嘉永元年)11月のことであった。ただしこのときに家慶は名倉家で休息せず、実際に訪れたのは後の13代将軍徳川家定であった。名倉家に現存する建物は、江戸時代末期のものに縁側部分を増築したものと推定される。 蔵は内蔵(うわぐら)、外蔵(したぐら)、米蔵が現存する。内蔵には家族はあまり入らず、使用人や書生が中のものの出し入れを担当した。年中行事のしつらえを始め、提灯、笠や道具類など家庭用品が収納され、第二次世界大戦後はカルテの保存場所でもあった。外蔵は昭和期に増築されたもので、内蔵の収納量が限界に来たため作られたものという。長持や先代の人々が嫁に出たり分家していったときに置いていった人形ケースや箪笥、大正期の電話帳などが残されている。米蔵は大正期に建てられたもので、第二次世界大戦前は小作農家が1年分の米を運び入れていた。米蔵には竜吐水(昔の消防ポンプ)や木桶なども保管されている。名倉家の建物は、1984年(昭和59年)に足立区登録記念物(史跡)となった。 庭園は、江戸時代に比べてかなり範囲が狭まっている。古地図によると、かつては現在の倍以上の面積があったといい、現存するのはかつて庭園だった部分の北端部である。この庭園はモミジやヤマウルシなどの紅葉を楽しむための庭で、現存の樹木は樹齢が70年から80年ほどのものが多い。カヤの古木が存在するが、これは樹齢が100年以上であり、樹木医が養生保存を行っている。通常は池のほとりに設置される雪見灯籠が庭園内にいくつか残されているため、往古は池泉回遊式の庭園だったと思われる。
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