中書院
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「前田家住宅 (橋本市)」の記事における「中書院」の解説
明治時代建築、木造平屋建、桟瓦葺き、入母屋造、桁行3間、梁間2間半、建築面積53m2。四面に半間の下屋庇を廻す。内部は8畳と床付き6畳の2室構成になり、南面下屋は押入と床,他3面は板縁とし,主屋と渡廊下で繋がる離れ座敷。
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中書院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 01:34 UTC 版)
1966年(昭和41年)5月落慶。南側「光聚庵」(崇仁親王妃百合子命名)と北側「心月庵」(茶道裏千家家元汎叟宗室(鵬雲斎)命名)、「静嘉軒」(立礼席)からなる。茶室は申込みにより借用可能。正月期間中などは、信徒接待にも使用される。
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中書院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 19:44 UTC 版)
中書院は南北棟の入母屋造、杮葺の建物で、規模は4間半四方である。間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。建物の東面から南面にかけて、半間幅、畳敷の「折曲り入側縁」をめぐらす。古書院が松の角柱を使用するのに対し、中書院の柱は杉の面皮柱である。一の間は6畳で、西側に幅2間の大床があり、矩折れに北側には違棚がある。違棚には桂離宮には珍しく、鍍金菊花文の飾金具が用いられている。昭和修理時の調査により、この違棚は他の建物からの転用であることが判明している。二の間は8畳で、一の間・二の間境の欄間は木瓜形の窓を開ける。三の間は8畳で西側に1間幅の床(とこ)があり、床の右側は2畳大の「小間」となる。ただし、三の間と小間の間には間仕切りはなく、一体の空間になっている。各室の襖や床(とこ)、違棚の貼付壁には狩野派絵師による水墨画が描かれている。筆者は一の間の「山水図」が狩野探幽、二の間の「竹林七賢図」が狩野尚信、三の間の「雪中禽鳥図」が狩野安信である。 まとめ 古書院と中書院とでは、縁や縁の下の構造にも差異がある。古書院の縁は板敷で吹き放しの濡縁であり、雨戸は奥まった位置に立っている。これに対し、中書院の縁は屋内の畳縁で、雨戸と明障子は建物の外縁部に立つ。古書院では雨戸の茶色と明障子の白が交互に目に映るのに対し、中書院では雨戸は日中は戸袋に納められているため、明障子の白色の面積が大きくなっている。この点は新御殿も同様である。古書院、中書院、新御殿とも、桂川の水害に備えた高床式の建物になっているが、このうち古書院では縁板より下を白壁で囲っており、縁の下の空間が一切見えないのに対し、中書院と新御殿では縁の下は吹き抜けとし、床下を覆い隠す白壁(一部は竹壁)は一段奥に引っ込んだ位置にある。 中書院の年代については、障壁画を描いた狩野探幽・尚信・安信の3兄弟が揃って京都にいたのが寛永18年(1641年)であり、その頃の建立と推定されている。建築様式的にもその頃の建立とみて差し支えなく、翌寛永19年に八条宮2代の智忠親王が前田利常の女の富姫を娶っていることも増築と関連するとみられる。なお、昭和の解体修理時の調査により、中書院の縁が当初は吹き放しであったこと、三の間西側の床と2畳の小間の部分は改造されていて、もとは納戸のような1室をなしていたことが判明している。これらの改造は新御殿増築時のものとみられる。
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