木割と桂離宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
桂離宮は、江戸時代初期に八條宮智仁親王の別荘として、京の南西の郊外に建てられた。最初に古書院ついで中書院、新御殿と三度の造営で完成をみている。二条城が、純粋な書院造の大成をめざしたのに対し、桂離宮の書院は、純粋の書院造りではなく、数寄屋構えをめざしたと考えられる。桂離宮には木割が存在していない。書院造は元々「木割」をもっているが、数寄屋造にはない。 近世は木割術の発達普及した時代であった。木割とは、柱間(はしらま)を基準に、ほとんどすべての建築各部材の寸法が、その整数比率で定められている。 この柱間とは、柱の中心から中心の間隔をとる「真真制」であった。木割は、部材の比例を体系化した、いわば設計基準であった。これに基づき建物を設計すれば、一応まともな建物ができる事に利点があった。一般住宅や寺社建築に関する木割が普及した。 『匠明』は慶長十五年(1610年)に完成した木割書である。木割書には、主に立面に関する設計基準を言葉で記したものである。木割書は大工の秘伝・家伝であったが、江戸中期ころには木版本などで広く普及する。 一方で、商品流通の必要から、木材は規格化され商品化されていった。畿内地方では、木材は四寸角、長さ十三尺五寸が基準とされた。基準木材の二つ割りを敷居・鴨居に、四つ割りを垂木に、六つ割りを寄せ敷居や鴨居、十二割りを腰の胴縁や天井の棹縁に用いるなどと定められていた。 また畳の普及も商品流通の必要から、必然的に規格寸法化されていた。このため内法制(柱の内がわの寸法を基準とする)が生まれ、長手が六尺三寸、短手が三尺一寸と規格化されていった。 一方、関東地方では、六尺を一間とするため、畳の長手が五尺八寸短手が二尺九寸で、畿内地方の「京間」に対して「田舎間」と称された。ともかく、畳を中心として柱間寸法が定まり、室の大きさは畳の枚数で表されるようになっていく(畳割制)。 このような、商品流通の事情から、材木や畳、建具の規格化が促進され、大工は、木割を頭に入れておけば、簡単な間取り図さえあれば、設計図面などなしで建物を建てることができた。このため、住宅は画一化された様式となり、また畿内、中京、関東地方でそれぞれ畳の寸法が異なり、「京間」の六畳に対して、「中京間」は約0.9「田舎間、江戸間」は0.85の広さと、地方によって部屋の広さが異なるようになっていった。 特に、人口が密集した江戸において、最も小さな畳を基準としたのは、家康時代の三河地方では、質素倹約の立場から、京間に対して田舎間と称して意識的に小さな畳を使用させていた。 家康の関東入部に伴い、三河地方の畳職人も江戸に移り、必然的に江戸でも「田舎間」の畳を作り、それが標準となったという。数寄屋造は、木割とは全く異なった秩序体系をもっていた。桂離宮は、木割からも木材の規格寸法からも解放されている。 畳の大きさもまちまちであり、柱間の寸法も標準がなく、必然的に建具の寸法もさまざまに作られている。構造的合理性も経済的合理性もなく、自由奔放に作られている。 一貫しているのは、既成の秩序体系を超越した視覚的な美しさである。中書院では柱を三間も抜いて、極端に幅の広い明障子を立て込み、単調な繰り返しを破っている。襖も幅広く、大胆な市松模様に貼り分けている。桂離宮の美しさは、その閑雅な造形と名庭園とが、一体に溶け合っているところにあるといわれている。 桂離宮は、回遊式の庭園が池を中心に展開している。 代表的な建築物は、古書院、中書院、楽器の間、親御殿と雁行して建てられた書院造りの様式をとっている。他に月波楼、松琴亭、まんじ亭、賞花亭、園林堂、笑意軒などがある。 茶室として作事された松琴亭は、庭園の中心をなす造形であり、桂離宮のなかでも白眉である。松琴亭の床の間および襖には、薄藍色と白色の加賀奉書紙が大胆な市松模様に貼り付けられている。 桂離宮は数寄屋風書院造りの頂点に立つ建築でもあり、数寄屋造りと書院造りとの接点であり、書院の茶から数寄屋としての茶室への先駆であつた。
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