家康時代とは? わかりやすく解説

家康時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 02:56 UTC 版)

浜松城」の記事における「家康時代」の解説

元亀元年1570年)に家康武田信玄侵攻備えるため本拠地三河国岡崎から遠江国曳馬移した岡崎城嫡男信康譲られた。当初天竜川渡った見付磐田市)に新たに築城をするつもりであったが、籠城戦持ち込まれた際天竜川により「背水の陣」となることから、曳馬城西南方向拡張したその際曳馬という名称が「馬を引く」、つまり敗北つながり縁起が悪いことから、かつてこの地にあった荘園浜松荘)に因んで城名地名ともども浜松」と改めた元亀3年1573年)、武田信玄がこの城を攻め素振り見せながらこれを無視するような行軍をして家康挑発挑発され家康浜松城から打って出たが、武田軍巧妙な反撃遭って敗北喫した三方ヶ原の戦い。なお諸説有り)。三方ヶ原の戦いでは徳川軍一方的な敗北の中、家康討ち死に寸前まで追い詰められ夏目吉信鈴木久三郎身代わりにして、成瀬右衛門日下部右衛門小栗忠蔵島田治兵衛といった僅かな供回りのみで浜松城逃げ帰った。この敗走は後の伊賀越え並んで人生最大危機とも言われる浜松城到着した家康は、全ての城門開いて篝火焚きいわゆる空城計を行う。そして湯漬け食べてそのままいびきを掻いて眠り込んだと言われる。この心の余裕取り戻した家康の姿を見て将兵は皆安堵したとされる浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心煽られ城内突入することを躊躇しそのまま引き上げたといわれる拡張改修天正10年1582年)ごろに大体終わったが、その4年後の天正14年1586年)、家康浜松から駿府本拠移した家康の在城期間は29歳から45歳までの17年になる。

※この「家康時代」の解説は、「浜松城」の解説の一部です。
「家康時代」を含む「浜松城」の記事については、「浜松城」の概要を参照ください。

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