徳川家康時代とは? わかりやすく解説

徳川家康時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)

伏見城」の記事における「徳川家康時代」の解説

豊臣秀吉遺言より豊臣秀頼は翌慶長4年1599年正月大坂城移り五大老一人である前田利家同年3月3日病死徳川家康石田三成同年3月10日佐和山城追放すると、同年3月13日留守居役として入城する。その徳川家康同年9月には大坂城移った。この時の様子を、「諸大名悉く大坂家居下引越され候、伏見の儀は荒野罷り成る可き躰に候」(『島津義弘書状』) と島津義弘伝えている。徳川家康大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが大坂移ってしまい、伏見城城下町荒廃していく様子記されている。 徳川家康は翌慶長5年1600年6月会津征伐向かったこの間に、小早川秀秋島津義弘連合軍鳥居元忠城代となっている伏見城を4の兵で攻城同年8月1日炎上落城した。 詳細は「伏見城の戦い」を参照 このとき、石田三成城内建物ことごとく焼き払ったと書状に記している ことなどから、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したと考えられる。 なお、『城と秀吉』では、京都市内複数の寺に、落城の際に自刃した徳川家家臣の血がついた床板天井転用したと伝わる「血天井」が存在することを根拠に、全建物が焼失したわけではなかったとしているが、これらの天井伏見城床板であった証拠血痕とされるシミが血によるものである裏付けなどについては示されていない

※この「徳川家康時代」の解説は、「伏見城」の解説の一部です。
「徳川家康時代」を含む「伏見城」の記事については、「伏見城」の概要を参照ください。

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