徳川家康時代
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豊臣秀吉の遺言より豊臣秀頼は翌慶長4年(1599年)正月に大坂城へ移り、五大老の一人である前田利家が同年3月3日に病死、徳川家康は石田三成を同年3月10日に佐和山城へ追放すると、同年3月13日に留守居役として入城する。その徳川家康も同年9月には大坂城に移った。この時の様子を、「諸大名悉く大坂へ家居以下引越され候、伏見の儀は荒野に罷り成る可き躰に候」(『島津義弘書状』) と島津義弘は伝えている。徳川家康が大坂城に移ると伏見にあった大名屋敷のほとんどが大坂に移ってしまい、伏見城の城下町は荒廃していく様子が記されている。 徳川家康は翌慶長5年(1600年)6月、会津征伐に向かった。この間に、小早川秀秋、島津義弘連合軍は鳥居元忠が城代となっている伏見城を4万の兵で攻城、同年8月1日炎上、落城した。 詳細は「伏見城の戦い」を参照 このとき、石田三成は城内の建物をことごとく焼き払ったと書状に記している ことなどから、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したと考えられる。 なお、『城と秀吉』では、京都市内の複数の寺に、落城の際に自刃した徳川家家臣の血がついた床板を天井に転用したと伝わる「血天井」が存在することを根拠に、全建物が焼失したわけではなかったとしているが、これらの天井が伏見城の床板であった証拠や血痕とされるシミが血によるものである裏付けなどについては示されていない。
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