徳川家康へ伝来
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「妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ」の記事における「徳川家康へ伝来」の解説
『明良洪範続編』によれば、本作は御宿家伝来の刀であるとされる。天正12年(1584年)前後に織田信雄から徳川家康に贈られたと神社の宝物台帳に記されている[要ページ番号]。社伝によると、家康はこの刀を最も好み、戦に幾度か使用したほか、常に身に付け、夜は枕刀にするほどだったという[要ページ番号]。また、本作は行光作の脇差と大小の揃い物であり脇差の拵には鐔(つば)が付属していない珍しい形式であるが、これは帯刀するのに邪魔にならないように造られたものであり、確実に家康が差していた刀ともいわれている。 『徳川実紀』における家康の記録を記した『東照宮御実紀』、および秀忠の記録を記した『台徳院殿御実紀』によれば、家康は大坂の陣によって豊臣宗家(羽柴家)を滅ぼした後も、死の直前に家臣に命じてこの刀で罪人の試し斬りをさせ、徳川家に対して不穏な動向のある西国大名が謀反を起こすことのないよう、この刀の切先を西に向けて、その刀の剣威によって徳川家の子孫を鎮護するため久能山東照宮に安置するように遺言を残したという。また、刀の身長は2尺2寸余、柄長は7寸であって、長さと重さが手頃なので、老体且つ病弱の家康でも死の前日に柄を握って2、3振りはすることは出来たとされている[要ページ番号]。 明治44年(1911年)4月17日に古社寺保存法による国宝に指定されている。奇しくも指定された4月17日は家康の命日であった。昭和25年(1950年)の文化財保護法施行後は重要文化財となった。久能山東照宮が所有し、内陣に御神体と同様に祀られている[要ページ番号]。
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