徳川家康の進攻に抗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/07 07:18 UTC 版)
永禄4年(1561年)4月には徳川家康が今川氏に反旗を翻し牛久保城を急襲すると、牧野保成はただちに今川氏の命により家康に与した国人・西郷正勝の本拠地八名郡中山(現・豊橋市)を攻撃したが撃退された。 以後、牧野保成は甥の成定と共に今川方の先鋒として徳川軍の進攻を迎え撃ち、戦いを繰り返した。しかし、永禄5年2月の一宮砦(豊川市一宮町)攻防戦で遠征部隊を引率した今川氏真と徳川家康が直接対決し、氏真が完敗。その後、野田城が奪回され、同年9月29日の御油東岡合戦(御油片坂合戦とも呼ぶ)とこれに引き続いた「八幡・佐脇合戦」ではまた家康自身の出馬により、駐留今川軍も惨敗した。それ以後、牧野保成は苦戦となる。 なお、保成の関連した戦いは以下の通り。 「中山の戦い」;永禄4年(上記。「堂山の戦い」とも呼ぶ)。 「高城砦の戦い」;永禄4年。中山の戦いに連動した戦い。西郷領の同砦は中山の後背山地にあり、菅沼定盈・西郷勝茂(孫七郎、西郷正勝3男)が守っていたが、陥落し西郷勝茂は戦死した。 「御油東岡合戦」;永禄5年9月、上記のとおり家康出馬により敗北。 「牛久保城外の戦い」;永禄6年3月。牛久保城外12-13町(距離;約1.3-1.4km)まで出張して徳川軍と激戦(上記文献)。 これら合戦の関連項目→牧野成定にある。
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