徳川家康の慶長造営
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「馬場大門のケヤキ並木」の記事における「徳川家康の慶長造営」の解説
徳川家康は江戸幕府を開く前、関東の支配を堅固とするため領国内の有力寺社に領地の寄進を行った。六所宮は武蔵国府の威儀を背負う存在として500石の社領の寄進を受けている。そしてさらに、家康は新たな馬場の寄進、そして1606年(慶長11年)には社殿の造営を行っている。 古来より武蔵国は良質の馬を産するとされており、武蔵国府の馬市は権威ある存在であった。家康はこの馬市で求めた馬のおかけで、大坂の陣(関ヶ原の戦いとも)に勝利できたとして、勝利への礼として六所宮に新たな馬場を寄進し、馬市の法を定めた。家康が馬場を寄進するまで、武蔵国府の馬場は六所宮の境内の東西両側に所在した。家康は境内の北側に馬場を移転し、馬場の左右の土手に植樹を行ったとされる。この植樹は源頼義・義家父子が行った苗木の寄進にならったとされる。この馬場の左右がどこの左右を指すのかははっきりしない。また、1604年(慶長9年)に甲州街道が開通したことにより、元々の馬場に街道が横断し馬場として役立たなくなったため、馬場の移転が行われたという説がある。 ただ、家康が馬場の左右の土手に植樹を行ったとの話は、六所宮の縁起類以外には記載がなく確認が取れない。また、現存する六所宮の縁起類のうち慶長造営に一番近い時期、1624年(寛永元年)に六所宮神主猿渡盛道が書いた『六所宮縁起』『武蔵国総社六所宮縁起并社伝』には家康が植樹を行った話が記載されておらず、後世の1800年(寛政12年)に六所宮神主猿渡盛房が書いた『六所宮伝記』以降の縁起類には記載されているという点で、家康が植樹した説には疑問が残る。
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