社領とは? わかりやすく解説

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しゃ‐りょう〔‐リヤウ〕【社領】

読み方:しゃりょう

神社領地社地神領


社領(しゃりょう)

神社領地神領ともいう。時代によって変遷はあるが、神社はその社領について維持、管理租税徴し司法行政権有した

社領

読み方:シャリョウ(sharyou)

所在 福岡県福岡市東区

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

社領

読み方
社領しやりょう

寺社領

(社領 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:30 UTC 版)

寺社領(じしゃりょう)とは、かつて日本にあった領地区分のひとつ。




「寺社領」の続きの解説一覧

社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 07:09 UTC 版)

佐太神社」の記事における「社領」の解説

康元元年1256年)の『社領注進状』(出雲大社所蔵によれば280丁と杵築大社(現:出雲大社)に匹敵するほどの社領を有していたという。宝永3年1706年)の『佐陀大社勘文によれば島根郡秋鹿郡7000石の社領と224人の神人有していたが太閤検地によって大幅に減じられ堀尾吉晴時代になって200石まで回復したという。江戸時代に入ると杵築大社とともに出雲国内の神社管轄しそれらを支配する「触下制度」を確立した佐陀大社管轄島根郡秋鹿郡意宇郡の西半分楯縫郡神社であった

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社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:38 UTC 版)

鹿島神宮」の記事における「社領」の解説

常陸国風土記』や『延喜式によれば神宮鎮座する常陸国鹿島郡神郡、すなわち郡全体神宮神領指定されていた。 また『常陸国風土記』には、神戸すなわち祭祀維持のための付属民戸について次の記載がある。 孝徳天皇以前、8戸 孝徳天皇年間645年-654年)、50戸増(計58戸) 天武天皇年間673年-686年)、9戸増(計67戸) 持統天皇4年690年)、2戸減(計65戸) - 『庚寅年籍作成影響と見られるその後奈良時代文書には、次の記載がある。 天平宝字2年758年)、神奴218人を神戸とする (『続日本紀』天平神護元年765年)、鹿島社から神戸20戸を春日社寄進 (『新抄格勅符抄』) 神護景雲元年767年)、男80人・女75人の神賎良民編入『続日本紀』宝亀4年773年)、神賎105人と良民婚姻禁止『続日本紀』宝亀11年780年)、脱漏した神賎774人の神戸編入認め神司良民神賎とすることを禁止『続日本紀』延暦元年782年)、陸奥国神戸2戸 (『新抄格勅符抄』) 延暦5年786年)、神戸105戸・神賎戸50烟・課685人・不課2,676人 (『新抄格勅符抄』) 平安時代藤氏長者職封より10戸の寄進を例としたという。平安時代末期以降は、各神官がそれに付属する所領私領世襲した。 中世には神領侵犯が度々行われ社殿造営費用にも欠く状態であったという。のちに豊臣秀吉により侵犯停止され文禄4年1595年)の検地で社領は405石と定められた。 徳川家康からは慶長7年1602年)に1,500石が加増され、社領は2,000石に及んだ(うち大宮司100石、当禰宜300石、大禰宜大祝40石)。

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社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 15:22 UTC 版)

出石神社」の記事における「社領」の解説

新抄格勅符抄大同元年806年)牒によれば当時には神戸として但馬国から13戸が充てられていた。 弘安8年1285年)の『但馬国大田文』には、社領田が141町6反60歩があると見える内訳常荒流失3町1反、出石押領4町4反120歩、長日御祭田71256歩、講経修理田等27町9反240歩、引声御神楽田以下料11町1反240歩、定田8町8反140歩。また、本家を「高辻姫宮」(京都高辻通邸宅を持つ女性を指すが未詳)、案主を「肥前々司跡子息三人分領一人左衛門入道蓮阿一人四郎左衛門入道妙心、一人五郎左衛門入道定智」とする。 正平6年1351年)の後村上天皇綸旨によれば建武の新政において領家廃されとされる

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社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 06:32 UTC 版)

氣比神宮」の記事における「社領」の解説

六国史時代における社領の記録次の通り持統天皇6年692年9月26日20戸増封 (『日本書紀』) - 表記は「笥飯神」。 天平3年731年12月10日従三位料として200戸 (『新抄格勅符抄』) - 表記は「気比神」。 天平神護元年765年9月7日44戸(計244戸) (『新抄格勅符抄』) - 表記は「気比神」。 上記のうち持統天皇6年記事は「増封」であるため、これに先立ってすでに封戸があったとされる。また244戸という神封は、全国でも屈指の数になる。その後、『日本三代実録によれば元慶8年884年)に神宮封租穀は神庫納めて祭祀費にあてられるともに、神戸百姓国役への充当停止されている。 平安時代末期以降には社領が荘園化し鳥羽院本家として皇室領に入り美福門院八条院春華門院順徳院後高倉院安嘉門院室町院亀山院後宇多院後醍醐天皇へと大覚寺統伝えられた。また、律令制崩壊とともに先の封戸荘園化したとされる。それらの荘園領は建暦2年1212年注進目録によって知られ同文によると社領は敦賀郡中心とする越前国加え敦賀港三国港要港越中越後までの一部にまで及んでいた。作田257町余で所当米は1,700石余、さらに請加米を加えると2,111であったそのうち本家分は702石余、領家分は292石余、大宮司預所)分は177石余である。前述のようにこれら荘園本家皇室であったが、領家九条良輔九条兼実の子)の知行始まって延暦寺属の青蓮院伝えられた。 応仁の乱の後は、武家による侵略を受けながら朝倉氏滅亡までは所々の社領を有したが、朝倉氏滅亡後衰退した江戸時代の社領は100であった

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社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:28 UTC 版)

住吉大社」の記事における「社領」の解説

住吉大社の社領について、『新抄格勅符抄大同元年806年)牒によれば当時住吉神には神戸として239戸が充てられており、そのうち摂津国50戸・丹波国1戸・播磨国82戸・安芸国20戸・長門国66であった。また同書所収宝亀11年780年12月符では、住吉神について本封のほかに摂津国に新封10戸の存在見える。また『住吉大社神代記』では、神戸として摂津国40烟・播磨国82烟・長門国95烟など計217烟が記載されるが、その史実性は確かではない。 保安元年1120年)の『摂津国正税帳案』では「住吉神戸」として「五拾捌租稲弐仟参佰弐拾束」とするが、社領の全体像明らかでない。また文書によれば長寛3年1165年)・文治2年1186年)・寛喜2年1230年)・弘安9年1286年)に四天王寺阿倍野巡って堺相論が、治暦3年1067年)・天治2年1125年)・承久3年1221年)などに播磨清水寺相論があり、相論根拠に『住吉大社神代記』が持ち出されることもあった。延元元年1336年)の後醍醐天皇綸旨では『住吉大社神代記』を基に旧領当知行安堵されたほか、南北朝時代には津守氏南朝勢力属した関係で堺の地(大覚寺統荘園の堺北庄)が寄進された。 天正16年1588年6月には豊臣秀吉大政所病気平癒延命祈願として1万石の加増申し出たほか(実際加増不明)、文禄3年1594年)には検地により社領(朱印地)は「欠郡住吉内」の2,060石と定められ江戸時代幕末までこの石高推移した

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社領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)

香取神宮」の記事における「社領」の解説

延喜式によれば神宮鎮座する下総国香取郡神郡、すなわち郡全体神宮神領指定されていた。『常陸国風土記』には、鹿島神宮鎮座する常陸国鹿島郡香島郡)が大化5年649年)に神郡として建郡されたとあり、香取郡同様に建郡されたものと推測されている。 大同元年806年)には神宮封戸70であった11世紀には藤原氏からの封戸寄進記事見える。 中世には、神官同士争い千葉氏代表される武家からの神領侵犯があり、訴訟頻繁に行われたまた、中世に始まる特殊収入として「海夫(かいふ)」、すなわち香取海漁業従事者からの供祭料があった。 千葉氏滅亡後、代わって関東入った徳川家康の下で天正19年1591年)に検地が行われた。その結果社領は大幅に削減され同年に1,000石が朱印地として与えられた。元禄期の史料では、神宮900石、大戸社領100石、神宮寺20であったという。

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