初期荘園
初期荘園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 10:21 UTC 版)
そこで政府は新たな推進策として743年に墾田永年私財法を発布し、墾田の永年私有を認めた。墾田永年私財法の内容は主に以下のようなものであった。 三世一身法では墾田の所有期限を定めていたため、期限が迫ると耕作が放棄されてしまっていたので、以後は墾田の私財としての永年所有を認める。 開墾の意思のあるものは国司に申請しする。他の百姓の妨げになる場所の開墾は認められない。また、3年が経過しても開墾が行われない場合は他のものが開墾することを認める。 位階によって所有できる墾田の面積は制限される。 国司が開墾した田地は任期が終了した時に政府が収公する。 これにより、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪(かつての豪族層)は活発に開墾を行い、大規模な土地私有が出現することとなった。この、墾田永年私財法の発布によって、各地に作られた荘園を初期荘園とよぶ。特に畿内に集中しており、全国に満遍なく拡がっていた訳ではない[要出典]。 初期荘園は、墾田と開墾予定地に倉庫と管理事務所を兼ねた荘所が付属したものであり、後の中世の荘園のように、支配領域の境界が明確になったようなものではなかった。この時代の荘園は専属の農民を持たなかったため、それぞれの荘園の周辺に居住する農民の出作により労働力を賄い、賃租として収められる収穫の2〜3割から収益を得ていた。荘所には農民に貸与する農具や種籾、人夫への労賃や対価として渡す食料が収められており、管理人は荘所で執務した。 しかし荘園の直接管理は、人的・経済的な負担も大きく、また墾田の収穫の中から田租を納入する負担などにより、初期荘園は10世紀までに衰退した[要出典]。 ただし、平安時代後期に成立する官省符荘の中には初期荘園に由来するもの、あるいは由来すると領主側が主張していたものもあり、当時の人々の間では初期荘園と中世の荘園の間には連続性があると認識されていたとみられている。 著名な初期荘園には、越前の道守荘(東大寺領、荘園絵図が現存する)や播磨の鵤荘(法隆寺領)などがある。
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