初期臨床研修義務化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:46 UTC 版)
従来、医師国家試験に合格した医師は、大学医局に研修医として所属することが多かった。そして、医局は集まった研修医を教育した後に人事権を把握している系列の地方の基幹病院に半強制的に派遣し、不本意ながら派遣された医師が往々にして地域医療を支えていた。この医局管理は地域医療の維持には有効であったが、行政側からは大学医局が病院の人事権を盾に好きなことをしているとしているとして、新聞や雑誌で「日本の医療改革には医局解体が必要」という意見が根強く存在していた。 1998年、関西医科大学研修医過労死事件を発端に研修医の立場見直し論が浮上し、厚労省の医師臨床研修検討部会での検討により2004年度からの初期臨床研修義務化が実施され、市中の総合病院でも研修医の初期研修ができるようになった。大学病院は、元々雑用ばかりで待遇の悪かったので研修医は激減した。医師数が減少してしまった大学医局は、系列の地方の病院に派遣していた医師を引き上げざるを得なくなり、また新たに地方病院に医師を半強制的に派遣することも出来なくなった。地方の基幹病院では医師が足りなくなり、集約化が進むことになり、病院によっては特定の診療科を閉鎖せざるを得なくなった。 加えて研修先を自由に選べる為に都市部の研修システムが充実した病院に研修医が集中し、教育環境の劣悪な病院には志望者が行かなくなった。以上のことから、初期臨床研修制度は医療崩壊の引き鉄となった。つまり、従来は研修システムの充実とは無関係に医局との関係性で派遣されていた研修医が、さまざまな病院やその教育・研修システムを比較して研修医個人が良いと思う病院を選ぶ時代になった。 また、それまでの医学生は自身の専門となる診療科を決める際、実際の医療現場の労働環境を見ることは殆どなく、興味や憧れ、使命感に燃えて診療科を選択していた。初期臨床研修義務化に伴い、様々な診療科の現場に入り、その現場の現実を実体験することになり、過重労働がみられる診療科や訴訟リスクの高い診療科、QOMLの低い診療科を避けられるようになった。 元々当制度は、研修医の待遇や研修システムの改善、医師が自由に赴任先を選択できる自由度は増すというメリットはあったが、医療崩壊を加速するとして、病院や医学部、民医連は反対していたが、行政主導によって開始されたものである。米国では効果をあげた制度であるが、元々医療資源に余力が少ない日本において、医師数を増やすなどの対策をせず当制度を開始したためにこのような新たな問題が浮上した。
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