初期統治時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 13:54 UTC 版)
「フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 (プロイセン王)」の記事における「初期統治時代」の解説
1842年、ゴシック建築を代表するケルン大聖堂の建設再開を祝う式典に、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はプロイセン国王として臨御した。なお、王は即位した1840年に、大聖堂を建設するための公法人であるケルン大聖堂中央建築協会の設立を許可していた。王自身、ドイツ統一の重要なシンボルとして大聖堂建設再開祝祭を歓迎し、ケルン大司教と共に建築再開のための礎石を据えた。ケルン大聖堂の建設再開はケルン大司教だけの決定ではなく、福音主義信仰を持つプロイセン王による巨額の財政支援によって可能になったのである。したがって、このケルン大聖堂の建築再開はプロイセン王国の威信を高めるための国家的事業であった。19世紀のドイツにおいて中世世界を高く評価するロマン主義思想が盛んになっており、王自身もこの思想に強い共感を持つに至っている。王が即位した翌年の1841年に、ヘーゲルの死後空席となったベルリン大学哲学教授にロマン派に近いシェリングを招聘し、ヘーゲル左派の急進的思想に対するいわば防壁にしようとした。1817年にプロイセン王国でルター派と改革派を合同したプロイセン福音主義教会が父王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世による命令で設立されていた。この合同教会には、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世によって作成された礼拝式文が下賜された。その式文はニュルンベルクのルター派教会礼拝式に倣ったものであり、ローマ・カトリック教会のミサに準拠したものであった。ラテン語でおこなわれていた当時のローマ・カトリック教会のミサとは異なり、ドイツ語での礼拝式文(祝祭日にはラテン語式文も挿入することも容易だった)であったが、プロイセン領邦教会の礼拝は宗教改革以前のミサ様式に戻っていた。このような教会で宗教生活をした王にとってローマ・カトリック教会は遠い存在ではなく、親近感すら持っていた。ゴシック様式ケルン大聖堂の建築再開も違和感のあるものでは無かった。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は芸術、とりわけネオゴシック様式を愛好していた。彼はポツダムのサンスーシ庭園においてフリーデン(平和)教会の建設を提案した。この教会名称は「平和の君、われらの主イエス・キリストに奉げる」という意味で付けられた。教会は初期キリスト教的–ローマ・カトリック教会の建築様式を手本にして建設された。とりわけ、ローマにある聖クレメンテ教会と初期キリスト教会建築で有名なサンタ・マリア・イン・コスメディン教会を組み合わせて建築されている。この教会において皇太子は銅板銘版にローマのキリスト教会建築に奉げていることを銘記している。さらに、コブレンツの南にあるシュトルツェンフェルス城とシュヴァーベン地方ヘヒンゲンにある一族の発祥地にあるホーエンツォレルン城をネオゴシック様式で再建した。
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