初期統治とは? わかりやすく解説

初期統治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:22 UTC 版)

マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「初期統治」の解説

即位してすぐにまずアウレリウス帝は自らの長女で、法律上ルキウス帝の義姪にあたるルキッラとルキウス帝の結婚決定した同時に帝国初期路線沿って貧民階級の子供に対す慈善政策進めたアウレリウスはその質素な生活と、貴族的でない謙虚な振る舞いから民衆の人気集めていた。言論の自由保障され喜劇作家皇帝揶揄する文言発表して決して罰せられなかった。それ以前皇帝達はもちろん、以後皇帝達でもこうした事を許す場合少なかった伝記作家は「寛大な方法見落とさなかった」と述べている。 次にアウレリウス帝は人事政策着手し帝国要職刷新行った通信長官(Ab epistulis)をセクストゥス・カエキリウス・クレスセンス・ウォルシアヌス(Sextus Caecilius Crescens Volusianus)からティトゥス・ウァリウス・クレメンス(Titus Varius Clemens)に交代させた。ティトゥス・クレメンスはマウレタニア戦争での活躍台頭し5つ属州総督歴任した人物であった。彼は軍部指揮に関する実績があり、有事備えて人事であった。かつてアウレリウス教育携わった人物の一人であり、即位時にはエジプト総督務めていたルキウス・ウォルシウス・マエキアヌス(Lucius Volusius Maecianus)は元老院議席与えられ国庫長官 (aerarium Saturni)に指名された。後にウォルシウスは執政官にも叙任されている。更に恩師フロントの子息オウフィディウス・ウィクトリアヌス(Aufidius Victorinus)も抜擢され属州ゲルマニア・スペリオル総督任命された。 属州アフリカキルタ市で隠棲していたフロント教え子即位聞く3月28日帝都ローマへ向かい自由民アウレリウス帝への手紙を託した。あえてフロント直接アウレリウス帝に手紙を送ることはしなかった。フロントは自らの教え子誇り思い手紙にこう記した。「貴方に天賦の才があった。その才は今完成しつつある。成長する果実は実をつけ、民衆熟した収穫与えるだろう。私は貴方に希望抱き、そしてその希望現実となった」。後に二人再会の場を持つが、そこにルキウス帝を呼ぶ考え双方無かったルキウス帝はアウレリウス帝ほどフロントから敬意受けていなかった。アウレリウス帝は恩師に今読んでいる本(ルキウス・コエリウス・アンティパテル)についての話をした。アウレリウス確かに庶民的な皇帝」として大衆人気があったが、次第多くの困難を抱え始め「最も幸福な時代」と呼ばれた初期の統治終わり迎える。 162年の春、ティベリス川(現テヴェレ川)の増水によってラティウム地方甚大な被害が及び、農作物損失から飢饉発生した全ての皇帝がそうであるように、君主政務の殆どは公文書制作署名費やされるアウレリウス法律に関する専門的知識持ち、それに基づいた改革や行政を行った。特にアウレリウス孤児少年少女保護解放奴隷についての法律市議会議員選出方法などを改革した

※この「初期統治」の解説は、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の解説の一部です。
「初期統治」を含む「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事については、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「初期統治」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「初期統治」の関連用語

初期統治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



初期統治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマルクス・アウレリウス・アントニヌス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS