初期統治
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「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「初期統治」の解説
即位してすぐにまずアウレリウス帝は自らの長女で、法律上はルキウス帝の義姪にあたるルキッラとルキウス帝の結婚を決定した。同時に帝国初期の路線に沿って、貧民階級の子供に対する慈善政策を進めた。アウレリウスはその質素な生活と、貴族的でない謙虚な振る舞いから民衆の人気を集めていた。言論の自由は保障され、喜劇作家が皇帝を揶揄する文言を発表しても決して罰せられなかった。それ以前の皇帝達はもちろん、以後の皇帝達でもこうした事を許す場合は少なかった。伝記作家は「寛大な方法を見落とさなかった」と述べている。 次にアウレリウス帝は人事政策に着手し、帝国要職の刷新を行った。通信長官(Ab epistulis)をセクストゥス・カエキリウス・クレスセンス・ウォルシアヌス(Sextus Caecilius Crescens Volusianus)からティトゥス・ウァリウス・クレメンス(Titus Varius Clemens)に交代させた。ティトゥス・クレメンスはマウレタニア戦争での活躍で台頭し、5つの属州総督を歴任した人物であった。彼は軍部隊指揮に関する実績があり、有事に備えての人事であった。かつてアウレリウスの教育に携わった人物の一人であり、即位時にはエジプト総督を務めていたルキウス・ウォルシウス・マエキアヌス(Lucius Volusius Maecianus)は元老院議席を与えられて国庫長官 (aerarium Saturni)に指名された。後にウォルシウスは執政官にも叙任されている。更に恩師フロントの子息オウフィディウス・ウィクトリアヌス(Aufidius Victorinus)も抜擢され、属州ゲルマニア・スペリオルの総督に任命された。 属州アフリカのキルタ市で隠棲していたフロントは教え子の即位を聞くと3月28日に帝都ローマへ向かい、自由民にアウレリウス帝への手紙を託した。あえてフロントは直接アウレリウス帝に手紙を送ることはしなかった。フロントは自らの教え子を誇りに思い、手紙にこう記した。「貴方には天賦の才があった。その才は今完成しつつある。成長する果実は実をつけ、民衆に熟した収穫を与えるだろう。私は貴方に希望を抱き、そしてその希望は現実となった」。後に二人は再会の場を持つが、そこにルキウス帝を呼ぶ考えは双方に無かった。ルキウス帝はアウレリウス帝ほどフロントから敬意を受けていなかった。アウレリウス帝は恩師に今読んでいる本(ルキウス・コエリウス・アンティパテル)についての話をした。アウレリウスは確かに「庶民的な皇帝」として大衆に人気があったが、次第に多くの困難を抱え始め「最も幸福な時代」と呼ばれた初期の統治は終わりを迎える。 162年の春、ティベリス川(現テヴェレ川)の増水によってラティウム地方に甚大な被害が及び、農作物の損失から飢饉が発生した。 全ての皇帝がそうであるように、君主の政務の殆どは公文書の制作と署名で費やされる。アウレリウスは法律に関する専門的知識を持ち、それに基づいた改革や行政を行った。特にアウレリウスは孤児や少年少女の保護、解放奴隷についての法律、市議会議員の選出方法などを改革した。
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