初期の統治
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ヤアルビー家の祖先はイエメンの出身でガフィリ族に属し、系図をたどると紀元前800年頃の人物であるヤアラブ・ビン・カフタンに行き着く。王朝の創始者であるナーシル・ビン・ムルシド(英語版)は1624年にイマームに選出された。ナースィルは過去のイバード派のイマームが首都に定めていたニズワに遷都し、ポルトガル勢力の排除という目標を掲げて部族勢力の統一を達成する。ナースィルは軍隊を編成し、オマーンの主要な都市やルスターク(英語版)、ナハル(英語版)といった城砦を占領した。1633年にはジュルファー(現在のラアス・アル=ハイマ)からポルトガル軍を追放し、1643年にはソハールを奪取する。1646年にはオマーンとイギリス東インド会社の間に通商条約が締結され、ナースィルはマスカットを領有するポルトガルに対してアラブ人の海洋貿易の自由化を要求した。 ナースィル・イブン・ムルシドの後、彼の従兄弟であるスルターン・イブン・サイフがイマーム職を継いだ。スルターンの時代にオマーンからポルトガル製力を駆逐する目標が達成され、ポルトガルによって占領されていたスール、クラヤート(英語版)、マスカットの制圧に成功した。1650年のマスカットの占領によってポルトガルはオマーン沿岸部の支配地を全て失い、スルターンはマスカットを拠点としてインド洋に進出した。スルターンと彼の後継者によってオマーンは強力な海洋国家に成長していき、東アフリカに存在したポルトガル領の多くがオマーンの支配下に置かれた。1652年にオマーン軍はポルトガルが領有していたザンジバル諸島への攻撃を行うが、同年にマスカットはポルトガル艦隊の攻撃に晒された。1655年にはオマーンの艦隊はインドにおけるポルトガルの拠点であるボンベイを攻撃し、1660年のオマーン軍のモンバサの攻撃によって、モンバサのポルトガル兵はフォート・ジーザスに追いやられた。東アフリカ沿岸部でのオマーン軍とポルトガル軍の戦闘は、数年にわたって続く。 スルターン・イブン・サイフが没した後、彼の息子であるビララブ・イブン・スルターンがイマームの地位を継承する。イバード派内では伝統的にイマーム職は合議によって選出されていたが、スルターンからビララブにイマーム職が相続されたことで、イマームの世襲制度が確立される。スルターンの治世の大部分は兄弟のサイフ・ビン・スルターンとの抗争に費やされ、1692年にジャブリン(英語版)でビララブが没した後、サイフがイマームの地位に就いた。
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初期の統治
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「ヘンリー8世 (イングランド王)」の記事における「初期の統治」の解説
父王ヘンリー7世の崩御によって1509年にヘンリー8世として即位、2ヶ月後にキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚式を挙げた。当初は政治には関心を示さず、父の時代からの重臣であったウィンチェスター司教(英語版)リチャード・フォックス(英語版)を重用していた。 翌1510年に、同様に父に仕えた重臣リチャード・エンプソン(英語版)とエドマンド・ダドリー(英語版)を逮捕した。2人は反逆罪で処刑され、障害となる人物をこのように処理するのがその後のヘンリーの習慣となった。1511年ごろからヘンリーの全幅の信頼を受けたのが、トマス・ウルジーであった。ウルジーはヘンリーの幼少期の監督係も務めていたが、教会内ではヨーク大司教(英語版)を経て枢機卿に登り、大法官の職について権勢をふるった。 1521年5月、バッキンガム公エドワード・スタッフォードを反逆罪で処刑した。ヘンリー8世はマルティン・ルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著した功で、同年10月に教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(ラテン語: Fidei defensor)の称号を授かるほどの熱心なカトリック信者であった。ちなみに「信仰の擁護者」の称号はイングランド国教会の成立後もヘンリー8世とその後継者に代々用いられ、現在のイギリス女王エリザベス2世の称号の一つにもなっている。 キャサリンは死産の後、王子を生んだが夭折し、流産の後、1516年にようやくメアリー王女(後のメアリー1世)を出産した。王女の誕生により、ヘンリーとキャサリンの関係は多少持ち直したが、良好とはいえなかった。ヘンリーは多くの愛人を持ち、エリザベス・ブラントによって庶出の息子ヘンリー・フィッツロイをもうけた。ヘンリー・フィッツロイはヘンリーに認知された唯一の庶子であり、初代リッチモンド公およびサマセット公となり、後に結婚したが子をなさないまま死んだ。そのほかにもヘンリーは私生児をもうけたと噂されるが、認知されなかったために確証はない。
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初期の統治
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「イタリア領エーゲ海諸島」の記事における「初期の統治」の解説
1923年以降、諸島の総督は軍人から文民に移行した。リベラルな外交官から初代総督に就任したマリオ・ラーゴはイタリア人やギリシャ人、トルコ人、ユダヤ人などが入り混じる複雑な民族社会の融和に取り組み、穏健な諸島民の統合を進めた。ラーゴは入植イタリア人に自治権を与え、地元のギリシャ人との結婚を奨励した。1929年、ピサ大学でドデカネス諸島民の学生への奨学金普及額が引き上げられた。これも、学生たちが帰島後にイタリア語やイタリア文化を諸島の中産階級に広めることを期待しての方策だった。 ラーゴは唯一、宗教については強硬策をとった。彼はドデカネス島民の自主的な教会を建てさせることでギリシャ正教会の権威を弱めようとしたが、失敗した。イタリア本土でファシズムが台頭すると、島の若者にもバリッラ団などのファシストグループが浸透するようになり、イタリア当局の名の下で諸島のイタリア化が押し進められるようになった。法的には、イタリア領エーゲ海諸島は植民地と本土の中間(possedimento)に位置していた。そのため、島民は完全な市民権を得られず、またイタリア軍に徴兵されることもなかった。 1936年にラーゴの後任として総督となったチェーザレ・マリーア・デ・ヴェッキは頑迷なファシストであり、彼の元でイタリア人化政策は急進的になっていった。教育や公共の場ではイタリア語の使用が強制され、ギリシャ語は学校では選択科目の一つに落とされた。1937年には、ファシストのシステムによるコムーネの長の直接選挙が行われた。1938年、イタリア民族法が諸島に導入されるとともに、諸島の法がイタリア本土の法と同格になった。
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