イングランド国教会の成立
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「イングランド国教会の成立」の解説
「イングランド国教会」および「国王至上法」も参照 テューダー朝第2代のヘンリー8世は1509年にイングランド王となり、当初は修道院改革や聖職者教育の改善に努める一方、ルター派を弾圧して聖餐における化体説をあらためて支持して聖職者の結婚を禁ずるなど、カトリシズム強化策をとっていたが、1530年にはスペイン王家出身の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚の許可をローマ教皇庁に訴え出た。しかし、ローマ教皇クレメンス7世はこれを受理せず、1533年にはヘンリー8世を破門に処した。同年、ヘンリー8世は上告禁止法を定めて国王が聖俗を一元的に支配することを決定した。翌1534年には国王至上法(首長令)によってイングランド国教会が成立し、イングランド議会は国王を国教会の首長の座に据え、ローマ教会から離脱した。こうして、イギリスでは国王の離婚という私事を契機としていわば「ローマ教会なきカトリシズム」という形式での宗教改革(あるいは「旧教離脱」)を実現した。イングランド国教会の内部ではルター主義的諸改革が一時なされたものの、ヘンリー8世統治下ではやがてほぼカトリックの教理と教会規則に立ち戻る逆行現象が起こり、聖母マリアの崇敬や聖人崇敬が奨励され、聖書を私的に読むことが禁じられた。イングランド国教会は以後、何度かの内部改革運動を経ながら、基本的に政教未分離のまま現代にいたっており、国教会の長であるカンタベリー大主教は「全イングランドの首位聖職」として国政上も絶大な発言権を有している。 1547年、ヘンリー8世とジェーン・シーモアの子エドワードは9歳でイングランド王エドワード6世として即位した。プロテスタントとして育てられたエドワード6世は宗教改革の推進者となり、ラテン語に代わって英語で聖書を朗読し、聖餐式を改め、教会内陣に聖画像を置くことを禁止し、司祭の結婚も認めた。1840年代のジュネーヴで発展したカルヴァン主義はイングランドにも波及し、イングランド国教会の教理と典礼に採用された。1552年、カルヴァン神学が『一般祈祷書』に取り込まれた。大主教トマス・クランマーによってプロテスタント的な信仰箇条『42箇条』が答申され、王はこれを許可したのである。 エドワード6世が若くして死没すると、ヘンリー8世とキャサリンの子メアリー1世がイングランド女王として即位し、1555年にはローマ教会との和解が成立してカトリックに復帰し、没収した教会財産も返還されて異母弟エドワードの定めた諸法を廃止したうえ、ヘンリーの反教皇的諸法も廃止された。福音主義的な傾向のある司教たちは次々に処刑され、迫害は一般人にもおよび、その犠牲者は273名と数えられている。大主教クランマーもメアリー統治下で殉教した。 メアリーが病死して後継者として異母妹エリザベス1世(ヘンリー8世とアン・ブーリンの子)が即位すると、事態は再び逆転した。女王は1559年に再び国王至上法を復活させてイングランド国教会を再建し、国教会を総攬する至上の統括者となった。また、1563年に定められた39箇条(聖公会大綱)の教義は主としてカルヴァン主義を土台としたものであったが、長老制を退けて主教制を保持した。エリザベスは「よき女王ベス」と称され、多くの国民の支持を得た。イングランド国教会はカトリックとプロテスタントの折衷的ないし中間的な性格を有し、イギリスの場合は国家と宗教は緊密に結びついて今日に至るが、ヨーロッパ全体でみた場合、16世紀の初頭には普遍的なカトリック教会しかなかった西ヨーロッパの教会が、この世紀の中葉にはローマ教会、ルター派教会、カルヴァン派(改革派教会)、イギリス国教会の4つに分裂し、後葉にはそれがほぼ固定したともいえる。 なお、この時期のイングランドの重要な神学者にリチャード・フッカーがいる。フッカーは16世紀末葉に『教会政治論』を著し、国教会がカトリックとピューリタンの中道に立つことに賛意を表したほか、聖書解釈にあたっては伝統と同程度に理性と経験が重要であると論じた。キリスト教徒は団結すべきであると考えるフッカーは宗教における寛容と自由を説いており、17世紀のジョン・ロックの寛容論にとって先駆的な意味を有している。
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イングランド国教会の成立
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「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「イングランド国教会の成立」の解説
イングランドは597年のカンタベリーのアウグスティヌスの渡英以降カトリック教会の一員であった。しかし、男子に恵まれなかったイングランド王ヘンリー8世がスペイン王女キャサリン王妃と離婚しアン・ブーリンと再婚しようとして教皇クレメンス7世に承認を求めた所、ローマ教会はキャサリンの甥に当たるスペイン王兼神聖ローマ皇帝カール5世の支配下にあったために教皇は承認できなかった。これに反発したヘンリー8世は1529年からローマ教会の権限を制限していき、側近のトマス・クロムウェルの力を借りて次々とローマ教会と決別する法律を施行、1533年の上告禁止法ではイングランドは完全の独立国家であり、教会の決定権は国王にあると宣言した。カンタベリー大司教(後にカンタベリー大主教に変更)トマス・クランマーは離婚と再婚を合法としたが、教皇は王を破門した。1534年の国王至上法で国王をイングランド教会の首長としてイングランド国教会が成立し、ローマ教会から独立した。こうして世俗国家による教会支配である国家教会体制が始まった。 ヘンリー8世は修道院財産を没収し、さらに修道院解散を命じると、解散に反対した信徒がリンカンシャーやヨークシャーで蜂起(恩寵の巡礼、1536年)したが鎮圧された。1539年には大修道院解散法で総計130万ポンドの修道院財産を没収したが、フランスと同盟を組んだスコットランドとの1544年の戦争での戦費供出のため、貴族、ジェントリへ売却した。このようにイングランドの宗教改革はプロテスタントを反映しておらず、王もカトリックを信仰しており、主教制(教会内階層)も存続したままだった。カトリック派のノーフォーク公トマス・ハワードやウィンチェスター主教は1539年の6カ条法で化体説にもとづき、パンのみの聖餐や告解が指示された。 1547年にヘンリー8世が没し、幼少のエドワード6世が即位したが、ノーフォーク公から実権を握ったのはエドワード6世の母方の伯父でプロテスタントのハートフォード伯(サマセット公)エドワード・シーモアであった。摂政(護国卿)となったサマセット公は6カ条法などプロテスタントを妨害する法を廃止、1549年の礼拝統一法(英語版)ではラテン語でなく英語による礼拝を義務づけ、デヴォンシャーとコーンウォールではラテン語礼拝を求めて反乱が起きた。1553年には化体説を否定した(42カ条法)。一方で教会財産の没収は続き、サマセット公の財産は増えていった。しかし、1549年の農民反乱(ケットの反乱(英語版))にサマセット公は適切な対策がとれず、逮捕されてロンドン塔へ監禁された後処刑、ウォリック伯(ノーサンバランド公)ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公も教会の財産を没収し、宝石や鐘など礼拝に不要な用具を没収した。更にはエドワード6世の異母姉で王位継承者であったカトリック教徒のメアリー(メアリー1世)から権利を奪おうと策謀をめぐらしたが、失敗してノーサンバランド公は処刑された。 初の女王となったカトリック教徒のメアリー1世は、ヘンリー8世時代以来の諸法を廃止しカトリック教会へ復帰した。ローマからの使節レジナルド・ポールはカンタベリー大司教となった。一方でプロテスタントは弾圧され、300人の聖職者や信徒が火刑となった。また、女王はアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)と結婚し、イングランドとスペインの同盟が成立した。しかしフェリペはスペイン王となると、教皇とむすんだフランスと開戦し、イングランドも参加したが苦戦し、大陸の領土カレーをフランスに奪われた。 メアリー1世の死後即位した異母妹のエリザベス1世は1559年の国王至上法で、国王は教会の統治者(首長ではない)とされた。エリザベス1世は穏健なカトリックを包摂するよう政策をとっていったが、これにプロテスタントの立場から批判していく勢力の改革派が発生し、「清教徒(ピューリタン)」と揶揄された。ただし、国教会内部での方針に関する対立であったので、国教会とピューリタンを明確に区別することは不可能であるとされる。 フランス王妃となっていたメアリー・ステュアート女王が夫の死後にスコットランドに帰国すると、すでにスコットランドではジョン・ノックスが宗教改革を断行していたため、メアリーによるカトリック復古政策に反発した貴族によってメアリーは追放された。イングランドに亡命したメアリーを、エリザベス1世打倒のためにノーサンバランド伯トマス・パーシーやウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルらが利用して1569年に反乱(英語版)を起こしたが失敗した。カトリック教徒が反乱を支持しなかったことに不満を抱いた教皇は女王を破門したが、対抗して女王はカトリック弾圧政策をとっていった。こうしてエリザベス1世時代には、教義はプロテスタント、教会政治と礼拝様式はカトリックの国教会体制が確立した。
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