イングランド国教会の成立とは? わかりやすく解説

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イングランド国教会の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「イングランド国教会の成立」の解説

イングランド国教会」および「国王至上法」も参照 テューダー朝第2代ヘンリー8世1509年イングランド王となり、当初修道院改革聖職者教育改善努め一方ルター派弾圧して聖餐における化体説あらため支持して聖職者結婚禁ずるなど、カトリシズム強化策とっていたが、1530年にはスペイン王家出身の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚許可ローマ教皇庁訴え出た。しかし、ローマ教皇クレメンス7世はこれを受理せず1533年にはヘンリー8世破門処した同年ヘンリー8世上告禁止法定めて国王聖俗一元的支配することを決定した。翌1534年には国王至上法首長令)によってイングランド国教会成立しイングランド議会国王国教会首長の座に据えローマ教会から離脱した。こうして、イギリスでは国王離婚という私事契機としていわば「ローマ教会なきカトリシズム」という形式での宗教改革(あるいは「旧教離脱」)を実現したイングランド国教会内部ではルター主義的諸改革一時なされたものの、ヘンリー8世統治下ではやがてほぼカトリック教理教会規則立ち戻る逆行現象起こり聖母マリア崇敬聖人崇敬奨励され聖書私的に読むことが禁じられた。イングランド国教会以後何度かの内部改革運動を経ながら、基本的に政教未分離のまま現代いたっており、国教会の長であるカンタベリー大主教は「全イングランド首位聖職」として国政上も絶大な発言権有している。 1547年ヘンリー8世ジェーン・シーモアの子エドワード9歳イングランド王エドワード6世として即位したプロテスタントとして育てられエドワード6世宗教改革推進者となり、ラテン語に代わって英語で聖書朗読し聖餐式改め教会内陣に聖画像を置くことを禁止し司祭結婚認めた1840年代ジュネーヴ発展したカルヴァン主義イングランドにも波及しイングランド国教会教理典礼採用された。1552年カルヴァン神学が『一般祈祷書』に取り込まれた。大主教トマス・クランマーによってプロテスタント的な信仰箇条42箇条』が答申され、王はこれを許可したのであるエドワード6世若くして死没すると、ヘンリー8世キャサリンの子メアリー1世イングランド女王として即位し1555年にはローマ教会との和解成立してカトリック復帰し没収した教会財産返還され異母弟エドワード定めた諸法廃止したうえ、ヘンリーの反教皇諸法廃止された。福音主義的な傾向のある司教たちは次々処刑され迫害一般人にもおよび、その犠牲者273名と数えられている。大主教クランマーもメアリー統治下で殉教したメアリー病死し後継者として異母妹エリザベス1世ヘンリー8世アン・ブーリンの子)が即位すると、事態は再び逆転した女王1559年に再び国王至上法復活させてイングランド国教会再建し国教会総攬する至上統括者となったまた、1563年定められ39箇条聖公会大綱)の教義主としてカルヴァン主義土台したものであったが、長老制退けて主教制を保持したエリザベスは「よき女王ベス」と称され多く国民の支持得たイングランド国教会カトリックとプロテスタント折衷的ないし中間的な性格有しイギリスの場合国家宗教緊密に結びついて今日に至るが、ヨーロッパ全体でみた場合16世紀初頭には普遍的なカトリック教会しかなかった西ヨーロッパ教会が、この世紀の中葉にはローマ教会ルター派教会カルヴァン派改革派教会)、イギリス国教会4つ分裂し後葉にはそれがほぼ固定したともいえる。 なお、この時期イングランド重要な神学者リチャード・フッカーがいる。フッカー16世紀末葉に『教会政治論』を著し国教会カトリックピューリタン中道に立つことに賛意表したほか、聖書解釈にあたって伝統同程度理性経験が重要であると論じたキリスト教徒団結すべきである考えフッカー宗教における寛容と自由を説いており、17世紀ジョン・ロックの寛容論にとって先駆的な意味を有している。

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イングランド国教会の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:41 UTC 版)

アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「イングランド国教会の成立」の解説

イングランド597年カンタベリーのアウグスティヌス渡英以降カトリック教会一員であった。しかし、男子恵まれなかったイングランド王ヘンリー8世スペイン王キャサリン王妃離婚しアン・ブーリン再婚しようとして教皇クレメンス7世承認求めた所、ローマ教会キャサリンの甥に当たるスペイン王神聖ローマ皇帝カール5世支配下にあったために教皇承認できなかった。これに反発したヘンリー8世1529年からローマ教会権限制限していき、側近トマス・クロムウェル力を借りて次々とローマ教会決別する法律施行1533年の上禁止法ではイングランドは完全の独立国家であり、教会決定権国王にあると宣言したカンタベリー大司教(後にカンタベリー大主教変更トマス・クランマー離婚と再婚合法としたが、教皇は王を破門した。1534年国王至上法国王イングランド教会首長としてイングランド国教会成立しローマ教会から独立した。こうして世俗国家による教会支配である国家教会体制始まったヘンリー8世修道院財産没収し、さらに修道院解散命じると、解散反対した信徒リンカンシャーヨークシャー蜂起恩寵の巡礼1536年)したが鎮圧された。1539年には大修道院解散法で総計130ポンド修道院財産没収したが、フランス同盟組んだスコットランドとの1544年戦争での戦費供出のため、貴族ジェントリ売却したこのようにイングランド宗教改革プロテスタント反映しておらず、王もカトリック信仰しており、主教制(教会階層)も存続したままだった。カトリック派のノーフォーク公トマス・ハワードウィンチェスター主教1539年の6カ条法で化体説もとづきパンのみの聖餐告解指示された。 1547年ヘンリー8世没し幼少エドワード6世即位したが、ノーフォーク公から実権握ったのはエドワード6世母方伯父プロテスタントハートフォード伯サマセット公エドワード・シーモアであった摂政護国卿となったサマセット公は6カ条法などプロテスタント妨害する法を廃止1549年礼拝統一法英語版)ではラテン語でなく英語による礼拝義務づけ、デヴォンシャーコーンウォールではラテン語礼拝求めて反乱起きた1553年には化体説否定した(42カ条法)。一方で教会財産の没収続きサマセット公財産増えていった。しかし、1549年農民反乱ケット反乱英語版))にサマセット公適切な対策がとれず、逮捕されロンドン塔監禁された後処刑ウォリック伯ノーサンバランド公ジョン・ダドリー実権握ったノーサンバランド公教会財産没収し宝石や鐘など礼拝不要な用具没収した更にはエドワード6世異母姉で王位継承者であったカトリック教徒メアリーメアリー1世)から権利奪おう策謀めぐらしたが、失敗してノーサンバランド公処刑された。 初の女王となったカトリック教徒メアリー1世は、ヘンリー8世時代以来諸法廃止しカトリック教会復帰したローマからの使節レジナルド・ポールカンタベリー大司教となった一方でプロテスタント弾圧され300人の聖職者信徒火刑となったまた、女王アストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)と結婚しイングランドスペイン同盟成立した。しかしフェリペスペイン王となると教皇むすんだフランス開戦しイングランド参加した苦戦し大陸領土カレーフランス奪われた。 メアリー1世死後即位した異母妹エリザベス1世1559年国王至上法で、国王教会統治者首長ではない)とされた。エリザベス1世穏健なカトリック包摂するよう政策とっていったが、これにプロテスタント立場から批判していく勢力改革派発生し、「清教徒ピューリタン)」と揶揄された。ただし、国教会内部での方針に関する対立であったので、国教会ピューリタン明確に区別することは不可能であるとされるフランス王妃となっていたメアリー・ステュアート女王夫の死後スコットランド帰国すると、すでにスコットランドではジョン・ノックス宗教改革断行していたため、メアリーによるカトリック復古政策反発した貴族によってメアリー追放された。イングランド亡命したメアリーを、エリザベス1世打倒のためにノーサンバランド伯トマス・パーシーやウェストモーランド伯チャールズ・ネヴィルらが利用して1569年反乱英語版)を起こした失敗したカトリック教徒反乱支持しなかったことに不満を抱いた教皇女王破門したが、対抗して女王カトリック弾圧政策とっていった。こうしてエリザベス1世時代には、教義プロテスタント教会政治礼拝様式カトリック国教会体制確立した

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